|
カテゴリ:演劇「ナショナルシアターライブ」でお昼寝
ルーファス・ノリス 「マクベス」神戸アートヴィレッジ 「Fair is foul,and foul is fair,」 聞きたかったこのセリフを、魔女たちが、どこで言ったのか聞き取れませんでした。字幕なんか見てたって、耳に届かない、いや耳が届かない音はしようがないのです。英語ができないのに英語の芝居を見るのはつらいものです。言葉の不自由を実感します。お芝居の面白さというのは、意味じゃなくてそこに現れる世界を身体で感じることだとは思うのですが、その世界が遠いことを痛感します。 舞台の人物たちは、あたかも内戦を戦っているゲリラ兵のようないで立ちです。そういう服装のマクベスとマクベス夫人の語り合いが始まります。 眠い。参った、文字通り「劇場でお昼寝」になってしまいそうです。。気持ちがついていきません。舞台の上の「マクベス」が、妙に線が細くて頼りない男に見えるんです。 設定された舞台とシェイクスピアの「ことば」が紡ぐ世界に素直に入っていくことができません。 「なんか、ズレてへんか。マクベスって、こんな男やった?」 そんな疑問が、しきりに湧いてきます。 手に染み付いた血をこすり落とそうとする、マクベス夫人の演技は印象的です。しかし、破滅する「悪」というより、リアルに「弱い人間」の不幸を感じてしまうんですよ、見ていて。 「そうなんかな?なんか、チガウ気がするなあ。」 「男性」や「男の子」役の女性俳優の起用、体に障害のある俳優、そのほかにも現代的な演劇の演出の工夫はあちらこちらにあります。ビニール袋の生首も、ガムテープで張り付ける鎧も、きっとそうなんでしょうね。ビニールかなにかを仙台の七夕の飾り付けのようにたくさん垂らして背景化した森の視覚効果も面白いんです。 中でも、身体から首を切り落とし、頭のない死体をころがしたまま、切り落とした生首をささげる工夫は、俳優の頭はどうなっているのか、思わずも一度舞台を見つめなしました。。 そういう工夫、それも舞台の面白さなのですね。 そういえば、先日見た映画「バイス」の中でチェイニー夫妻が突如シェークスピアのセリフを語り合うというシーンがありました。アメリカやイギリス、英語文化の中の人たちにとってのシェークスピアは、どうも、うかがい知れない広さと深さがあるようなんですね。 シェークスピアのことばのリズムや抑揚は、おそらく、イギリスの人たちにとっても古い言い回しだと思うのですが、現代を模した戦場で響き渡るセリフとして、イギリスの舞台の中の観客は、当たり前として受け入れているようです。 こちらでいえば、江戸時代の初めころの、たとえば「曾根崎心中」という人形浄瑠璃や「忠臣蔵」とかの歌舞伎のセリフが、そのリズムや抑揚も維持されたまま、現代演劇として上演されることは、日本では、ちょっと考えられません。 パロディかなにかのようになってしまうようなイメージしてしまいます。もちろんイギリスにも古典的な舞台はあるのでしょう、でも、彼らにとっての「文化としてのシェークスピア」は、もう少し「今」に浸透しているのでしょうね。そういう感じの興味をボンヤリ考える舞台でした。 「ええっ?結局、おもろなかったん?」 「まあ、そういうことかな?マクベスとかの長い台詞についていけんかったというのが正直な感想かな?でも次はイアン・マッケランのリア王やから。」 「今回もロリー・キニアって、有名な俳優やろ。」 「でも、よう知らんからええねん。」 「なんや、それ!?」 なんというか、現代イギリスの舞台感覚に敗北という印象の舞台でした。 演出 ルーファス・ノリス 作 ウィリアム・シェイクスピア キャスト ロリー・キニア (マクベス) アンヌ=マリー・ダフ (マクベス夫人) 原題「National Theatre Live: Macbeth」 2018年 イギリス オリヴィエ劇場 160分 (2019・04・24・アートヴィレッジ) ボタン押してね! にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.12.10 20:22:00
コメント(0) | コメントを書く
[演劇「ナショナルシアターライブ」でお昼寝] カテゴリの最新記事
|