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石塚真一「岳 (全18巻)」(BIGCOMICS)
2018年の夏の終わりころの日曜日の夜。 もう、おなじみ、我が家のゆかいな仲間の一人「ヤサイクン」が段ボール箱を抱えてやってきた。 「はい、これ。」 「なに?あっ、『岳』やん、どうしたん?持ってないっていうとったやん。」 「買ってん。読んだことないゆうてたやろ。」 「ヤサイクンも読み直してんの?」 「うん。風呂でな。」 「ご飯は?チビラちゃんたちはどうしてんの?コユちゃんは帰ってきた?キャンプ行ってたんやろ。面白かったゆうてた?一緒に来んかったん?」 「ああ、たべた。『お祭りや、お祭りや』ゆうて三人そろって出ていった、岩屋公園。コユが帰ってきたから、元気復活や、ふたりとも。留守の間、ちょっと静かやってんけどな。」 「須磨スイ、行っとったんやろ、昨日。写真来てたやん。」 「今日は夏祭り?盆踊りか?」 「岩屋公園てどこらへんやの?」 「西灘駅、阪神の海側、ちょっと西側やんな。通りかかったことあるで。」 「アーちゃんがついていってんの?」 「うん、そう。家からもすぐやし。これ、やっぱ、エエで。全巻泣ける。」 (註:コユちゃん=チビラ1号・アーちゃん=チビラ軍団のママ) 2008年小学館漫画賞「岳」全18巻。 10年前の作品だ。読みはじめたら、やめられなくなった。ただ、10巻にたどり着くころから、どうやって終わらせるのか気になり始めた。 最近のぼくの目は、続けて文字を読み続けるのが、なかなか難しい。カスミ目というのか、乱視というのか、ピントが合わなくなって、強烈に眠くなる。作品の内容とは関係ない。液晶の画面の見過ぎという説もある。そうだろうなとも思う。しかし、不便なことだ。Astigmatic bearと名乗ってきた結果、文字通り、その通りになってきたのだから、しようがない。 しっかり泣けた。落語に人情噺というのがあるが、あれと似ている。ただ、物語を支えているのが「山」だ。 いっとき流行った「構造分析」的批評をやりたい人には、こういうマンガはうってつけの対象なのだろうと思った。「山」なんて神話作用を描くにはもってこいの素材だろう。 16巻まで続く日々の描写は読者を飽きさせない。「山」の高さとすそ野の広さがマンガを支えている。北アルプス連山に対して、読者が持っている「神話」的イメージの多様性、美しさ、恐ろしさ、苦しさ、楽しさに対して、一話完結的にマンガ家が絵付き物語を与えていく。読者は一話ごとの小さな違いに納得し、泣き、笑い、ほっとすることができる。しかし、やがてマンネリに陥るに違いない。 マンネリを打ち破るために作者が用意したのは「新たな高い山」。より高い山を求めた主人公は、残念ながら元の山に戻ってくることはできない。神話化の次元をあげれば、もとの神話の場所は、ただの生活の場所になるほかない。 「山」の物語は時を経て、山の人、岳がいなくなった、北アルプスの現場で同じように繰り返しているように描かれるが、新しい神話は生まれない。すべてが後日談となるほかないからだ。作者はそれをよく知っていて、マンガはそこで終わりを迎える。傑作マンガだと思った。 (S)2018/08/23 追記 2019・05・03 「山」を印象的に描いているマンガには、名作「海街ダイアリー」もある。最終巻の山をめぐる恋人や、友人たちの思い、恋人の山からの帰還は、行き先が「山」でないと成り立たない感動だった。 最近見た「モンテ」という映画も「山」だった。パオロ・コニュッティ「帰れない山」という小説も、「山」でこそのリアリティ。 「岳」の石塚真一さんは、きっと、山を知っている人なんだと思わせる描写が、知らないボクには感動的だったし、記憶にも残っているが、途中からの予感通り、やはり主人公の「死」で終るしかないのか、というのが後まで残った。 ボタン押してね! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.05.29 14:45:25
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