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黒川創「鴎外と漱石のあいだで」(河出書房新社)
不思議な出会いということがありますね。黒川創という人の仕事について、ここのところ読み継いでいるのは、彼の「鶴見俊輔伝」にたどり着く前の下調べ気分でした。サッサと読めばいいだろうということなのですが、肝心の「鶴見俊輔伝」が手に入っていないのです。そんなこんなしていますと、2019年の年明けですね、そのころ偶然、読んでいた佐伯一麦の「麦の日記帳」のおしまいのほうで、こんな記事に出会ったのでした。 一月某日 実は、ここで佐伯一麦と同時に受賞したと紹介されている評論「国境 完全版」(河出書房新社)は、ぼくが「黒川創の仕事」と勝手に題をつけてシリーズで案内しようとしている作品群の中で、今のところトリをとる予定の著書です。今回は「鴎外と漱石のあいだで」(河出書房新社)という、おそらく「国境」という仕事から生まれた一冊を「案内」しようと書きあぐねていたのですが、そこに佐伯のこの記事がやってきたというわけです。 この夏から関心をもって読み継いできた小説家の佐伯一麦と評論家の黒川創の二人が、偶然、伊藤整文学賞でつながっていたということ知って、「あわわ…」という感じで意表を突かれたのですが、一方で、「えっ、やっぱり、つながってるんじゃないか」と腑に落ちた面もありました。 佐伯一麦の「渡良瀬」(クリックしてみてください)という作品を案内しましたが、する中で、なぜ「渡良瀬」という題名なのだろうという疑問が上手く解けないという感じがありました。そこで、こう書きました。 「日々のうたかたのような人の暮らしを描く小説の最後に、この風景を描くことで、人の命や生活を越えた時間が小説世界に流れ込んでくると作家は考えたに違いない。」 「渡良瀬」という、この小説作品を読み終えたときの、自分自身の感動の根にある表現に対する、精いっぱいの推測でした。 ところが、ここで案内している「鴎外と漱石のあいだで」のなかに、大正時代、中原淳一の挿絵とセットで一世を風靡した「少女小説」の作家、吉屋信子が父を語ったこんなエピソードが紹介されてがいたのです。 小学生の吉屋信子は、梅雨空の夕暮れどき、自宅のからたちの垣の前に立っていた。こちらに入ってくる人がいて、蓑を着て菅笠をかぶっていた。当時、それらはすでに古風な農村の雨具だったが、強い印象を受けたのは、この客人の顔だちだった。 足尾銅山から流れ出した鉱毒が渡良瀬川流域を汚染した対策として、鉱毒沈殿のために広大な遊水地が作られました。その過程で、全村水没の悲劇に抵抗した谷中村の戦いを支えたのが田中正造であり、政府から派遣された郡長として計画を実行したのが、吉屋の父、吉屋雄一だったというのです。 二人の出会いを、吉屋の娘、信子の著書から引いてくる、この手つきが黒川創の方法なのです。大文字で語られてきた歴史的事件のなかに、人の背丈をした人間を配置することで、歴史の姿が変化することを彼はよく知っていると思います。 佐伯の小説が時代の下流に立つ人間を描いているとするなら、ちょうど、それと反対の方角から、やはり人間の姿に迫ろうとする方法といっていいと思うのですが、同じ、渡良瀬の遊水地の話題で、今という時代を生きている二人の作家が別々の仕事の現場で、ほぼ同じ時期に遭遇していることは、ほんとうに、単なる偶然なのでしょうか。 ところで、ようやく肝心の案内ということになるのですが、これが難しい。話題が多岐にわたっていて、まとまりがつかないのです。 黒川創は「国境完全版」のあとがきでこんなふうに書いています。 夏目漱石という作家は、二〇世紀初頭のたった一〇年間を、創作に心血を注いでいき、そして死んでしまった。彼は時代への参加者でありながら、優れた傍観者でもあった。私には、その人柄が、ほほえましく感じられる。森鴎外という人が、支配体制の枠組みの中に辛抱してとどまりながら、つい、時々は、崖っぷちのぎりぎりまで覗きに行って、また戻ってくる、そうした態度を示すことについても、また。「鴎外と漱石のあいだで」は1894年、日清戦争後の台湾軍事統治の現場にいる軍医、森鴎外の姿から書きはじめられています。鴎外は大日本帝国の東アジア進出の当事者としてそこにいるわけです。 面白いのは、50年の後1945年、鴎外の長男、森於菟は台北帝大医学部の解剖学の教授であり、箱詰めにされた鴎外の遺稿や資料のほとんどがこの大学の倉庫に眠っていたそうです。 森於菟は、なさぬ仲の義母、森しげとの確執からか、父、鴎外の遺品をすべて赴任地に持って行ったのだそうです。その結果、東京にあった森家の旧居が、空襲にによって、すべて灰燼に帰したにもかかわらず、現在の「森鴎外全集」(岩波書店)の資料はすべて無事だという奇跡が起こりました。資料の帰国事業を担ったのは台湾の「日本語文学者」だったそうです。 一方、1903年、英国留学から帰国した漱石を待っていたのは、現実の日本という社会でした。 1904年 日露戦争 日本のみならず、東アジアの近代史を揺るがす大事件が立て続けに世間を騒がせ続ける中にあって、洋行帰りの夏目金之助は1907年朝日新聞社に入社し、小説という新しい表現の「創作に心血を注ぎ」始めるのです。 「それから」・「門」という作品の中で大逆事件が、なにげなく話題になっていることは知られていることかもしれませんね。しかし、入社第二作「坑夫」が足尾鉱毒事件のさなかに書かれ、足尾銅山の坑夫の話だということに、ぼくは初めて気づいきました。前述した吉屋信子のエピソードは、漱石のみならず、近代の日本文学の社会とのかかわりをあざやかに示唆しているのではないでしょうか。 もう一つエピソードを上げるとすれば、第一作「虞美人草」の女主人公「藤尾」のモデルが平塚雷鳥というのは有名なはなしなのですが、入社の前年に書かれた「草枕」の女性「那美」のモデルは前田卓(つな)といい、辛亥革命の立役者、黄興、章炳麟、孫文が亡命地日本で集った「民報社」で働く女性であったということも、本書によって知りました。 1911年、鴎外、森林太郎が「大日本帝国」を代表する推薦人として名を連ねた文学博士号授与を、あくまで拒否する漱石、その時夏目金之助の立っていた場所。漱石は社会に対してタダの傍観者ではなかったにちがいないし、鴎外は文学者としては、想像を超えた崖っぷちに立っていたのかもしれない。そういう思いが、次々と湧いてくる一冊でした。 黒川創が描こうとしている「日本語の文学」の成立という大きな構図がその背景に身の丈で立っている森林太郎、夏目金之助という二人の姿から見えてきます。ふと、気づくのは、そういうふうに配置して見せた 黒川創さんの手つきですね、ぼくにはそこがエラク面白かった。(S) 追記2019・11・24 「鶴見俊輔伝」はこちらからどうぞ。 ボタン押してね! にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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