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飯島耕一 「漱石の〈明〉、漱石の〈暗〉」 (みすず書房)
《其日は女がみんなして宵子の経帷子を縫った。―略― 午過になって、愈々棺に入れるとき松本は千代子に「御前着物を着換さして御遣りな」と云った。千代子は泣きながら返事もせず、冷たくなった宵子を裸にして抱き起した。「彼岸過迄」》 こうして引用されているところをなぞっていると、引用部が飯島耕一の何に触れたか、ということに思い当たりはじめる。それは、一種スリリングな興奮と悲哀の感覚を一緒に連れてくる。 こんな感想を理解してもらうには、読んでいただくほかはないが、「行人」を論じて終章にさしかかったところで、飯島が愛した詩人、萩原朔太郎の「行人」評に触れて、こんなふうに書いている。 《「行人」は単にユーウツなどといった気分的な悩ましさなどではなく、言ってみれば果てしなく宿酔にも似た心身の苦痛が持続する、しかも死を隣につねに感じ続ける(さらに自己消滅をさえつよく願う)重いウツ状態の人間を、実にねばりづよく描き出している。ウツ病の病者のエゴイズムと醜さを目をそらさず捉え得ており、それがいわゆる正常な人間の心理とまったく無縁とは言えないとまで思わせる。 飯島耕一自身のウツ病体験から、朔太郎を経て漱石へと読みすすめていく。飯島の詩の中にこんなことばがある。 見ることを拒否する病から 「この感覚」を取り戻しながら、生きようとした作家漱石の、本当の姿に迫ろうとすることが、飯島耕一自身の「生きる」ことを支えていると、はっきりと感じさせるのが、この最終章の結語だろう。 目を覚ますと同時に苦痛の生の刻々が始まるのだ。 ここで、飯島耕一は彼自身の、凄みさえ感じさせながらも、しかし、静かな生のありさまをこそ語っているといってかまわないのではないだろうか。 飯島には「萩原朔太郎」という力作評伝があるが、まだ読んでいない。本書は漱石に関する小さなエッセイを集めた本で、一つ一つのエッセイはすこぶる読みやすい。 漱石を見る目をもう一つ知ることになる好著だが、図書館にでも行かないと、もう、手に入らないかもしれない。 乞う、ご一読。(S) ボタン押してネ! にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.05.28 09:30:37
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