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カテゴリ:映画 日本の監督 タ行・ナ行・ハ行 鄭
濱口隆介 「寝ても覚めても」 シネ・リーブル神戸
読んでから観るか、観てから読むか。柴崎友香の同名の小説が映画になりました。どちらかというと、ひいきの作家で、読んだことがある作品でしたが、内容の記憶はあいまいでした。チラシをぼんやり見ていると、監督は濱口竜介、俳優は東出昌大、唐田えりかと載っています。 「知らんなあ?」 キャッチコピーはこんなふうに書かれています。 愛に逆らえない。 「なんやそれ、そういう話やったかいな。そんな、たいそうな恋愛小説やったっけ?」 というわけで読んでから観みました。 エンドロールが流れていくのをぼんやり観ていると、濱口竜介という監督の名前もなにげなく流れていきました。名前を覚えたと思いました。これは、この監督の映画やなと思いました。 玄関のチャイムが鳴って、白いシャツの男が立っているシーンが終わりごろにあります。 ここまで映画は、なんとか原作をなぞってきていました。しかし、ここから、はっきりと原作のストーリーに別れを告げます。 山陽新幹線「のぞみ」の車中、眠っている男の顔を見ながら叫び声をあげそうになる、主人公である朝子。 岡山駅の長いプラットホームで、菓子パンで膨らんだ鞄を抱えて、西に向かって走り去る「のぞみ」を見送る朝子。 小説にある、その二つのシーンが、映画でどう描かれているのか、ひそかに期待していました。 でも、期待は見事に肩透かしを食ってしまいました。原作に描かれているシーンそのものがありませんでした。映画では朝子も男も新幹線になんか乗らないのです。 その代わりに、映画にはおそらく東北地方の海岸だと思いますが、巨大な防潮堤を見上げるシーンがあります。カメラは防潮堤を越えて海を映し出します。泡立つように打ち寄せる波と遠くまで暗い海が見えます。強い風に吹かれながら、海を見ている朝子の横顔がスクリーンに大きく映し出されるのです。 想像を絶する脅威を具現させた海がそこに広がっていて、防潮堤の上で女が海に向かって立っています。 「なんや、このシーンはなんや。なんなんや?」 映画の作り手である濱口竜介は一人の女をそこに立たせることで、小説と別れを告げたシーンでした。映画はこのシーンを光源にして主人公を映し出し始める印象でした。 長大な防潮堤の上には朝子(唐田えりか)がいます。不思議なことに、ぼくの目からは、じわじわと涙が流れはじめました。何故、涙が流れるのかわかりません。ただ、大根としかいいようのない女優ではなく、映画「寝ても覚めても」という物語の朝子が立っていると思いました。それが、とてつもなく清々しかったのです。 スクリーンには捨てられた猫を探しながら雨にうたれる朝子、安心して濡れた上着を脱ぐ朝子、座っている朝子、次々と朝子が映しだされていきます。それは、小説で出会った、カメラを持った朝子ではありません。二人はとてもよく似ているのですが、やはり違うのです。で、ぼくは映画の朝子を見つめ続けていました。 捨てられた猫や津波の被災者に心を寄せる朝子のシーンは、彼女の生き辛さの理由として心に残っていきます。だが、「逆らえない愛」とキャッチコピー化されるような行動の根拠としての説得力を読み取ることは出来ません。映像には、小説の印象に引き図られている頭をおいていってしまう飛躍があります。 小説的なコンテクストをなぞろうすることをやめた映画が、一人の人間が本当のこと、譲れないことに執着する「美しさ」と、次の瞬間、何が起こるかわからない、何をしでかすかわからない「今このとき」の「危うさ」をシーンとして映し出してしまうことがありうるということを久々に実感した映画でした。 主人公の輪郭を「防潮堤から海を望むシーン」を光源にして映し出そうとしているかに見える映画で、小説のちがった読み方を差し出された印象の作品でしたが、巨大な防潮堤とその向こうの海を主人公たちの暮らしの向こう側に描いてみせた、この若い監督を知ったのはうれしいことの一つでした。 シネ・リーブルのある朝日ビルを出て、南に向かって歩いた。向うは海。青空が広がっていた。ポート・ターミナルには、とてつもなく大きな船が止まっていた。 キャスト ボタン押してネ! にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.12.27 23:51:37
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