柴崎友香「寝ても覚めても」(河出文庫) 2018年のことですが、映画館で濱口竜介の映画「寝ても覚めても」の予告編を観て、まず原作を読み直そうと思って、読みなおしました。
この場所の全体が雲の影に入っていた。厚い雲の下に、街があった。海との境目は埋め立て地に工場が並び、そこから広がる街には建物がびっしり建っていた。建物の隙間に延びる道路には車が走っていて、あまりにもなめらかに動いているからスローモーションのようだった。その全体が、巨大な曇りの日だった。だけど、街を歩いている人たちにとっては、ただの曇りの日だった。今は、雲と地面の中間にいる。四月だった。(冒頭)
雨宿りしていたカラスが飛び立った。わたしが見上げるのよりも速いスピードで上昇し、数秒で二十メートルの高さに達した。建物から出てきた人たちが、最初に出会った人に大雨と突風のことを話す姿が、小さな黒い点のようになって、あっちにもこっちにも見えた。どこまでも埋め尽くす建物の屋根や屋上は濡れて、街の全体が水浸しになったように鈍く光っていた。
積乱雲は北へ移動し、西にはもう雲の隙間ができた。隙間はどんどん大きくなり、やがて街を越えて海まで雲のない場所が広がっていった。(結末)
文庫本では312ページあります。7ページが最初だから、305ページの小説の冒頭と結末に置かれたフレーズを引用しました。二つのフレーズはあたかも描きつづけられた同じシーンのようによく似ています。 引用部分を語っているのは泉谷朝子、通称「アサちゃん・サーちゃん」です。大学を出て、働き始めたばかりで、二十歳すぎだった女性が三十歳を越えるまでの十年間を一人称で語り続けています。
一人称で語るということの特徴は何でしょう。「私」は「私」がいない場所については語れないということですね。主人公がいつもカメラを持っていることは象徴的かもしれません。小説の舞台で起こる出来事はすべて「私」の目と耳で体験した出来事だということです。こう書くと、「なんと不自由な」と思う人もいるかもしれませんが、教科書でおなじみの「こころ」(教科書引用部分)でも、「舞姫」でも、「富岳百景」でも、すべて一人称小説です。この国の近代文学はここから「私小説」というジャンルを生み出してきたようですが、柴崎友香はその文体を踏襲しているわけです。
しかし、、この小説は「私小説」ではありません。語り手が一人称の「私」で、かつ、カメラを持った「私」であることが、結末に至るまで変わらないだけです。これが、一つ目の特徴だと思います。
二つ目の特徴は接続詞です。この主人公の「語り」には文章語として使われる「しかし」・「つまり」・「なぜなら」といった接続詞がほとんど使われていません。接続詞は描写する主体の意識が描写対象を文脈として整理するためのツールだと考えると、この「私」は文字通り世界をそのまま受け入れてきたことになります。
その世界とは、一つ目の特徴が示す通り、「私」が見たり、聞いたり、感じたり、考えたりすることが出来る、対象世界であって、決して超越的な、つまり「私」が不在であっても勝手に動きだしたり、「私」を外側からとらえて裁断したりする世界ではありません。
こうした世界観は、どこか幼児的だといえるかもしれません。この小説の文章としての印象は実際、幼児的、子供的です。しかし、例えば、「つまり」を使うことによって、あらかじめ世界を文脈的に理解し始めて以来、ぼくたちは何かを失っているということはないのでしょうか。
で、それにこたえる三つ目の特徴が時制です。一つ目の引用に「今」という言葉があります。残りが、普通の過去時制で語られている中の現在形の「今」はいったい、いつ、どこなのでしょう。これも幼児的時制の混乱、あるいは、丸吞みとして読むことが出来ないわけではありませんが、果たして、そうでしょうか。
語り手の「今」が、歴史的現在である「今」とすり替わることを、作家は企んではいないもでしょうか。ぼくは、このブログの別の投稿で、柴﨑友香の別の小説「ショートカット」について、「今このとき」が書かれている小説と書いたことがありますが、この「寝ても覚めても」という作品では、十年の歳月の経過を設定しながら、それぞれの時を、「今このとき」のありさまとして描くことで、何かを越えて見せようとしているではないでしょうか。そこに、この作品の不思議な魅力があるように、ぼくには思えるのです。
文庫解説の豊崎由美はこういっています。
ラスト三十ページの展開がもたらす驚きとおぞましさは超ド級。何回読み返してもそのたびに目がテンになる朝子の恐ろしいまでのエゴイストぶりは、読者をして「もう二度と恋なんてしない」と震撼させるほどの破壊力を持っているのだ。
引用前後の文脈を読めば、どうも、褒めているらしいのですが、「語り」続ける朝子に対する「エゴイスト」という、評言は当たっていないし、つまらないとぼくには思えます。
「今このときの私」を「私」に見えるものを手掛かりにして語り続け、支え続けようとする生き方を、ぼくは「恐ろしいエゴイズム」だとは思いません。むしろエゴイズムを越えたところにこそある、存在の「あらわさ」、「あられもなさ」というものではないでしょうか。
そして、その「あらわさ」、「あられもなさ」は人の「存在」のありさまとして限りなく美しいとぼくは思います。そんなことは、だって、、気に入らなければ泣き叫ぶ赤ん坊を見ていればわかることだとぼくは思うのですが、いかがでしょうか。(S)追記2019・12・29
映画「寝ても覚めても」の感想は、ここをクリックしてみてください。
追記2022・12・01
参加している「本読み会」で、この人の作品「私がいなかった街で」(新潮文庫)が、2022年の12月の課題図書になりました。その作品は今から読み直すわけですが、自分が、柴崎友香の作品をどんなふうに読んでいたのかが気になって、作品は違いますが、昔書いた感想を読み直しています。
ぼくが、この作家が気になるのは、一人称単数の「私」という代名詞で表現される、本来、複数であるはずの「私」から、物語を支える「時間」を取り去ることで生まれる、生のままの「生」の「ゆらぎ」を描こうとしていると思えるところです。
さて、「私がいなかった街で」では、それがどうなったのか、まあ、読み直さなければわかりませんが、ちょっと興味が湧いてきましたね。
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