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茨木のり子・長谷川宏「思索の淵にて―詩と哲学のデュオ―」(近代出版)
たとえば「詩」の授業。学校の教科書に取られる作品というのは、ふつう短い。教科書の見開き2ページをこえる作品はほとんどありません。知る限りですが、一番長い詩は宮沢賢治の「永訣の朝」です。小説や評論のように読むこと自体に手間がかかるわけではありません。
短いということは、なんとなく、全部説明可能な印象を持ちますが、そうでしょうか。たとえば、戦前の「詩と詩論」というグループにいた人で、安西冬衛という詩人にこんな一行詩があります。これも知る限りなのですが、教科書で出会うかもしれない一番短い詩です。 「春」 ごらんのとおり短い詩ですが、これを授業で解説することは簡単でしょうか? まあ、「てふてふ」は「蝶々」の旧かな表記だとか、「韃靼海峡」は日本地図では「間宮海峡」のことだとか、「春」だから蝶は、おそらく南から北へ、サハリンから大陸へ向かっているとか。 すぐ気づくでしょうが、それらの事項はこの詩を読んで湧き上がってくるイメージについて、補助的な役割しか果たしていませんね。これじゃあ、教員は生徒に何をどう読み取ってほしいのかわかりません。 詩の授業に限りませんが、文学作品の鑑賞の難しさをなんとかする方法は、なかなか見つかりません。「好き」か「嫌い」かの二者択一を教員自身が下して、極端な話 「嫌いなものは授業ではやらない」 ということだってあるでしょう。考えてみれば、それも、あんまりですね。 たどり着くのは、いかにも凡庸ですが「詩」を読むこと。「詩」について誰かがなんか言っていることに興味を持つようにすること。 「あの人はこの詩のことをこんなふうに言っていたな。」 という引き出しを増やすことが、生徒たちの反応に対して 「ああ、それもあるか。」という、余裕のようなものを作るのではないでしょうか。 そんな引き出しを増やす可能性のある一冊に「思索の淵にて―詩と哲学のデュオ―」(近代出版)があります。茨木のり子という詩人の詩を読んで長谷川宏という哲学者が語っている本です。 「落ちこぼれ」 茨木のり子さて、この詩について哲学者の長谷川宏さんがこんなエッセイを書いています。 詩の書き出しには唸らされた。 どっちかというと、詩の授業のための引き出しというよりも、学校で先生をするための引き出しのため紹介になってしまいましたが、いかがでしょうか。 茨木のり子には、授業で紹介したくなる詩がたくさんあります。ちくま文庫には「茨木のり子集(全3冊)」もありますが、たとえば「自分の感受性くらい」という詩はいかがでしょうか。 「自分の感受性くらい」 茨木のり子 積み重ねてきた年月と、そこで営まれた生活から生まれた詩だと思いますが、年が若いからわからないという詩ではないでしょう。 こんなふうに自省することを強くうながす詩はなかなかないないのではないでしょうか。 茨木のり子の眼はいったん、自分の外に出ますね。そして自分に視線を向けています。そこから言葉を生みだしている自分の姿勢を見ています。すると、自分が恥ずかしくなります。 すっくと立とうしている、気持ちの姿勢が見えるように伝わってきます。最初の詩とこの詩と、二つとも、最終行が印象的な命令形なんですよね。そこに詩人の「意志」の「立ち姿」が現れていると思いませんか? 長谷川宏は文中にあるように塾の先生をしながら哲学を研究したひと。ドイツの哲学者ヘーゲルの研究者としては世界的な業績を残している人らしいです。詩人谷川俊太郎との「魂のみなもとへ―詩と哲学のデュオ―」(近代出版)も読みやすくておもしろい本です。いかがでしょうか。(S)2018/07/12 ボタン押してね! ボタン押してね! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.05.09 01:13:59
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