森岡正博・山折哲雄「救いとは何か」(筑摩選書)
哲学者(?)森岡正博と宗教学者(?)山折哲雄の対談「救いとは何か」(筑摩選書)を読みました。とうとう、「救い」を求め始めたわけではありません。図書館の棚を見ていて、以前、読んことのある森岡正博の名前を見つけて、どうしているのかと興味を持ったにすぎません。
「なぜ人を殺してはいけないのか」で対談が始まります。そこで、対談全体の問題が提示される、いわば、前振り的会話なのですが、そこで山折哲雄が引用している、北原白秋の「金魚」という詩にギョッとしました。
「金魚」 北原白秋
母さん、母さん、どこへ行た。
紅い金魚と遊びませう。
母さん、歸らぬ、さびしいな。
金魚を一匹突き殺す。
まだまだ、歸らぬ、くやしいな。
金魚をニ匹締め殺す。
なぜなぜ、歸らぬ、ひもじいな。
金魚を三匹捻ぢ殺す。
涙がこぼれる、日は暮れる。
紅い金魚も死ぬ死ぬ。
母さん怖いよ、眼が光る。
ピカピカ、金魚の眼が光る。
この詩を引用した山折哲雄は「なぜ」と問う少年との対面を想定してこう発言しています。
子供は神でもなければ仏でもない、大人と同じ、普通の人間だという認識ですね。だから僕には、そう言い切ることのできた白秋という人間が忘れられない。(中略)
親鸞は「殺すまいと思っても、一人でも千人でも殺してしまうことがあるのだ」と言っている。人間はそういう、論理的に説明することのできない「業」を抱えている。
ぼくがもし少年と対面したなら、「君もそいう業から逃れ得ているとはとても思えない。・・・」そういう話からまず始めると思う。
まずは、妥当という感じはしますが、さて、この言葉が「現代」の少年に届くのでしょうか。
この件についての北原白秋の発言が「北原白秋朗読」というブログに載っていました。孫引きさせていただきます。
私は児童の残虐性そのものを肯定するものではない。然し児童の残虐性そのものはあり得る事である。私の『金魚』に於ても、児童が金魚を殺したのは母に対する愛情の具現であった。この衝動は悪でも醜でもない。「白秋詩歌一家言・童謡私観」
北原白秋のこの言葉の「凄み」は、この詩が言葉にして言うのがはばかられるような「美しさ」を湛えているところにあると思います。
山折哲雄は話の展開上なのでしょう。そこには触れないで、「業(ごう)」について語っているのですが、この本の食い足りなさはそこにあるではないでしょうか。
この対談は、この後、社会事象としては「秋葉原通り魔事件」、「オームのサリン事件」、「東日本大震災」、を話題として取り上げ、「ゴジラ」、「ひまわり」、「禁じられた遊び」、「西部戦線異状なし」、などの懐かしい映画について語り合い、漱石の「門」、「明暗」、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」、「ヤマナシ」、「なめとこ山の熊」、といった文学作品の解釈も披露してくれます。最後は、原爆投下や原発事故をめぐって、昨今話題になったサンデル教授の「ハーバード白熱授業」の論法が批判され、宮沢賢治の「デクノボー」の思想にたどり着きます。
カギになる考え方は「誕生肯定」、生まれてきてこの世に存在することの肯定ですね。もう一つが「消滅肯定」。死ぬことの受け入れ。存在の不条理を「自然性」の上に置いて考える可能性を、宗教と哲学の両面から試行錯誤する試みでした。
事件や映画、文学作品に対する発言は、解説的でわかりやすく、ディベートによる論理展開が批判されるのも、ホッとします。
しかし、最終的に、白秋の「金魚」の恐ろしさは、どうも避けられた節があります。そこが残念でしたが、北原白秋について新たに思い出させてくれたことで納得というわけです。
追記2020・05・25
北原白秋と西條八十の詩について感想を書きました。「北原白秋・五十音」をクリックしてみてください。
最近、イギリスで「保育士」をしているブレイディみかこという人の本にハマっているからでしょうか、お二人の会話がお話しの上手な住職と教養にあふれた檀家の坊ちゃんのやり取りだったように感じられます。
今や、
「なぜ人を殺してはいけないか」
という問いさへ宙に浮き始めているかに見える「現代」の子供たち、いやもう、大人たちに対してどう迫っていくのか。「デクノボー」の思想の深さはどうすれば伝えられるのか。そんなことを考え始めています。
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