徳永進「自動詞と他動詞」(「図書」2014年6月号)岩波書店
徳永進という名前のお医者さんをご存知でしょうか。「ホスピス・ケア」とか、「ターミナル・ケア」という言葉があります。「終末期医療」ともいわれています。徳永さんは鳥取県で「野の花診療所」という病院を開いて緩和ケアの仕事をしているお医者さんです。下に引用したのは、岩波書店の「図書」という冊子に、ずっと昔に書いていらっしゃった文章の一部です。
「自動詞と他動詞」
動詞は動きを示す言葉だろう。動きは宇宙に、自然に、社会に、家の中に、自分の体の中、心の中に無数にある。言葉があるというより、生命現象の場には、無数の動きがあり、それを動詞が追っかけているのだろう。
自動詞は他にかかわらず、他に影響を与えない動詞。自らのうちに生じる現象を追う言葉。
足なら、立つ、歩く、走る、ころぶ。手なら触る、ちぢかむ、のびる、拍手する。手足なら、這う。会う、笑う、泣く、寝る、起きる、苛立つ、怒る、つのる、いたむ。
でもどちらかといえば、手、足、目、耳、舌、歯、心、などが持つ動詞は、他動詞であることが多いと思う。握る、蹴る、見る、聞く、味わう、噛む、憎む、愛する。自動詞、他動詞の両方によって身体の運動、心の動きは捉えられている。随意筋と不随意筋によって筋運動が支えられているように。
「伝える」と「伝わる」を臨床で教えられ、自動詞って深い、と知ったが、自動詞がより深い言葉で、他動詞がそうではない言葉、などとは言い切れないことも教えられる。抱く、さする、慰める、励ます、支える、癒す、助ける、救う、いずれも大切な他動詞たちだ。
生死につての動詞についても考えてみた。「生む」は他動詞、「生まれる」は自動詞。「生まれる」は英語では受動態だが、日本語では受動態とは言えず、自動態というべきだろうか。「殺す」は他動詞で能動態。「殺される」は受動態。「死ぬ」は自動詞、であるのに、「死なれる」という言い方があり、深い言い方だと知った。
小児科医たちが集まる医局で、「夕方、アキラ君に死なれちゃった」と目頭を赤くして小児科医が言う場合だ。自動詞の受動態。「別れ話をしていたら、彼女に泣かれて」も、泣くという自動詞の受動態。自動詞の受動態には、奥行きがある。
臨床で大切な「共感」「受容」「傾聴」の名詞は、それぞれ「する」をつけると自動詞になる。自動詞ならどれでも深いとは一律にはいえず、表面的に形式的にその動作をしているなら、それらは浅い。自動詞の「傾聴する」とは「聴く」ことである。聴くは他動詞だ。自動詞の世界で別の言葉を見つけ直すなら何だろう。「聞こえる」か。
患者さん、家族さんの気持ちを傾聴することはとても大切なことだが、さらに、その向こうで発されているかもしれない聞こえない声を聞こうとする、ない声が聞こえる。このことの方がより大切なことのように思える。自動詞は偉い。だが、詩人の谷川俊太郎さんは「みみをすます」という言葉を使って、聞こえない過去、現在、未来の言葉に触れようとしたことを思い出した。「すます」は他動詞。他動詞の深さも教えられる。自動詞だって他動詞だって、考えてみれば当然、深くもなれば浅くもなる。お互いさまか。
飽きることなく考え続けた。「見る」は他動詞、「視る」も「看る」も。臨床では大切な動詞だが、「聞こえる」から連想していくと、「見える」という自動詞も大切だと思う、目の前に見える世界だけでなく、患者さんの生活を想像したり、心の中を想像したり、過去やこの先のことを想像して見える世界。「聞こえる」も「見える」も、幻聴や幻視に通じて大切な自動詞の世界なのかもしれない。
たどり着いたのは、自動詞、他動詞、それぞれの深み、それぞれの味。反省をふまえ、臨床で大切だと思った言葉をそれぞれから一つずつ。「湧く」、「祈る」。
いろいろ考えながら、最後に「湧く」「祈る」にたどりつく。「祈る」はそうなんだなとすぐに納得がいきますね。その前の「湧く」。ぼくにおもい浮かぶ言葉は「哀しみ」。しかし、ほのかな「歓び」かもしれません。
大江健三郎という作家が「リジョイス」という言葉をキーにして小説を書いていたことを思い出しました。もちろん学習塾やパチンコ屋さんの話ではありません。もう少し宗教的というか、生きていることの本質にかかわる言葉ですね。
リジョイス。そっと呟いてみませんか。名詞なのか動詞なのか、究極の自動詞かもしれません。(S)2014/10/01
追記2023・02・17
「死なれる」という言葉の深さについて考え込む機会がありました。要するに「死なれちゃった」経験をしたわけです。偶然ですが、徳永進の別の本を読んでいての経験でした。マア、まだ、うまく言葉にできませんが、この投稿を思い出して修繕しました。別の本の案内も、そのうち出来たらと思っています。今日のところは、ここ迄です(笑)。
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