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ゴジラ老人シマクマ君の日々

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2019.06.27
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​竹内敏晴 「ことばが劈かれるとき」「ちくま文庫」
 ​ ​​​​今でもあるのかどうか知りません。昔、使っていた筑摩書房の教科書では、高校一年生の最初の教材に演出家?竹内敏晴のエッセイ​「出会うという奇跡」​というエッセイが載っていました。​​
​ いかにも新入生向けの題がついていて、さて、新入生の何人がこういう題の文章に心を躍らせるのだろうと、今でも考え込んでしまうのですが、しかし、竹内敏晴はちょっと、いいんです。​
​ この人の本と最初に出会ったのは、何時のことだったのだのでしょうね。その当時「思想の科学社」から出ていた「ことばが劈かれるとき」(現在は「ちくま文庫」版)という単行本によってでした。
​​
​​ 今、手元に見当たらないので、うろ覚えで書きます。その本は一緒に暮らし始めたチッチキ夫人の棚にありました。薄暗い装丁の陰気な雰囲気の本でした。何気なく手にとり、読み始めて唖然としました。
 そこには著者の自伝的な回想と実践が記されてあったのですが、まず、悪性の中耳炎のためにほとんど耳が聞こえなくなった話で始まります。次に、聞こえない耳を持った少年が何も喋れなくなる話へと続いてゆきます。そして、いったんことばを失った少年がことばを回復するプロセスの話が書かれていました。
 そこから​「ことばを劈く」​という、この本の題名になっている​「言い方」​が生まれるプロセスが記されていたのです。
 「劈」という文字は漢和辞典を引くと​「劈開(ヘキカイ)」​という​「切り開く」​という意味の熟語とともに、​「引き裂く」​という意味だと出ています。
 どうしても「音」となって出てこないことばを、口であるか喉であるかにナイフを差し込み、そこを切り裂くように放つという経験をこの人はしています。その経験を、まず、伝えようとしてこの文章を書いています。もう、その経験だけで読む価値があるとぼくは思います。
 しかし、この本の​​
啞然とした!
 ​​眼目はことばを取り戻した彼がことばを喪った人たちを相手に実践する体験の報告にありました。​
 例えばこんな話があります。彼が主宰する演劇研究所のワークショップの中で役者を志望する人たちが芝居の相手に科白を届ける練習なのですが、数人の相手に背を向けて座ってもらう。その中の一人を科白を投げかける相手と決めて、その人に向かってせりふを言いいます。自分に「ことば」が届いたと感じた人に手を上げてもらいます。そういう実践の話です。​
 果たして「ことば」は届くのでしょうか。気持ちを込め、はっきりと発声して何とか相手にことばを届けようと繰り返すのですが、見当違いの人が手を上げることはあっても、思う相手にはなかなか届きません。
​ 毎日この練習を繰り返しながら​竹内敏晴​が演者たちに指示することは​「大きな声を出すこと」​​「気持ちを込めること」​ではなくて​「体をほぐすこと」​なのです。​
 これは誰にでも分ることだと思いますが、気持ちを込めようとすればするほど、こわばってしまう身体があります。竹内は演者自身の体をほぐせるだけほぐすのです。そして静かに発声することを指示します。その結果、何と、ことばは届くのです。
 相手と決めた人が向こうを向いたまま、すっと手を上げた瞬間の喜びの中には、ほんとうの出会いの感動があると思いませんか。他者と出会うために、大事なことは、自分の体をほぐすことだったのです。
 意識や心がことばとともにあることが主張される風潮の現代社会の中で忘れられているのはことばを体の「生の器官」が作り出し発声しているという事なのだということなのでしょう。生の体をのびのびさせる所からことばを考える。ことばを失い、苦しみぬいた彼が到達した地点がそこにあります。
 ぼくたちは自分以外の外界に対して多かれ少なかれ身構え、緊張して暮らしています。身体はこわばり、こり固まってしまっているのです。この身体は時代と社会の中で、生活を支えてけなげに立っているといって良いかもしれません。いつの間にか、リラックスして、素直にことばを発する力を失っているのかもしれません。
 ところが自分ではその事に気付くことが難しいのです。「私」から「あなた」へ呼びかけたことばが届かない日常も、また当たり前のこととして「世界」を諦めてしまっていないでしょうか。
 この本の中で竹内敏晴はそんなふうに問いかけていて、これは信用できるなというのがぼくの評価でした。​
 あの当時、そんな竹内「出会い」を奇跡だと書いているのだから、高校生活を始める人たちにとっても、ゆっくり考えてみる価値があると信じて、その日も教室には出かけて行ったはずだったのですが・・・・。
 今では懐かしい思い出なのです。それにしても、「寝た子」たちに「言葉」を届けるというのは難しいものですね。(S)初稿​2006・04・15改稿2020・6・4

​​追記2019・06・27
 教室で声の小さい生徒は必ずいる。ぼく自身は、やたら声が大きくて、周りの人が顔をしかめるタイプなので、「イラッ」とすることがよくあった。バカみたいなことを言って申し訳ないが、この本を読んでから、すこし、腹が立たなくなった。
 生徒たちの「声」とか、「ことば」とか、「表情」とか、「しぐさ」とか、そういうことが、教壇に立っている時に気にかかり始めた。そうすると、少し落ち着いてしゃべることができるようになったと、あの当時感じたことを、最近、映画の画面を見ながら思い出すことがある。
 お芝居をしている舞台の上の役者の声とか、映像の中の表情とことばとか。会話になっているのかどうか、若い俳優さんが出てくるエンターテインメントなんかで、会話をみていて「えっ?」と思う。そんなシーンが時々ある。
追記2020・06・04
 「うたのはじまり」というドキュメンタリー映画に、耳の聞こえない父親がお風呂の中で赤ん坊を抱きながら、赤ん坊の言葉に呼応して歌い始めるシーンがありました。「ダイジョーブー♪、ダイジョーブー♪」と歌うそのシーンが「お風呂」のシーンだったことに、なんだかとても納得しました。
 裸で湯につかって、抱き合っている親子が、体全体で伝えているものが、やはりあるのでしょうね。

追記2022・06・23
 老人が二人で暮らす、広くもないアパートでお互いの言葉がよく聞き取れないことが、最近、増えました。そっぽを向いたまま話しかけたり、何か尋ねたりしても、たいてい聞こえないようなので、もう一度向き直って「おい!」と声をかけなおすということになりますが、向こうからも、まあ、同じようなことであるようです。
 老化という言葉を思い出しながらも、これといって「~ねばならない」ことが、もう、さほどあるわけでもない暮らしなのに、​​

「こわばった体とこころで暮らしているのかなあ・・・」

​ ​​と思うことがあります。耳が遠くなる理由は、耳の老化のせいだけじゃあないだろう、そんな気もして、なんとなく柔軟体操のまねごとを始めましたが、「固いのなんのって!」という状態です。いつまで続くかわかりませんが、せめて、立ったままで手が床につくくらいまでは頑張ろうかなと思っています(笑)。

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最終更新日  2024.01.06 23:31:24
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