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カテゴリ:映画 アメリカの監督
デビッド・ロウリー「ア・ゴースト・ストーリー」パルシネマしんこうえん
JRの垂水駅で電車を待っていると、放送があって、2分後くらいに到着するはずの電車が遅れるという。電光掲示に遅着時間が掲示されて、それを見上げていて、やっぱり、イラっとする。 「修業が足らんなあ。」 兵庫駅に着いたのが、思っていた時刻より遅れたので、早足になる。ここから湊川公園まで斜めに街をよぎって歩くと何キロになるのか知らないが、結構好きなコースや。歩いていると汗ばんでくる。 「夏やなあ。」 パルシネマには上映開始のバッチリ5分間に到着。汗だく。 夏だから「幽霊」というわけではない。昨年の封切り上映を見損ねて気にかかっていたら、友達がほめていた。ますます気にかかる。それを、半年すれば、こうやってみることができるのがうれしい。 映画が始まって、そして、終わった。あまり心が動く感じはしなかった。ただ、一か所、ほとんど最後のシーンだった。 かつて、妻であった女性が、家を去るに際して、メッセージの紙切れを柱だか壁だかのの割れ目にペンキで塗りこめたのだが、この家に暮らし続けた「ゴースト」が、朽ち果てた柱から。それを取り出そうとするシーンが描かれる。 思わず、見ているぼくの目はくぎ付けになる。その瞬間、家を壊す轟音が響き渡る。ギョッとして、我に返った。もちろん、家を去った妻が残した紙切れを「ゴースト」は読むことができなかった。 ぼくには、ここが山場だった。もしも、ここで紙切れを見て、それが曝されていたら、この感想は、書くこともなかったと思う。 映画は、時間の重層的な流れを映し出し、ゴーストは高層ビルの風景の中で姿を消す。もう一度、紙きれをめぐる物語が、時間を越えてくりかえされるが、ぼくには余計だった。この映画のよさは、ゴーストに「ことば」がないことなのだから。 「死んでしまったもの」に世界はない。 滝口悠生という作家が「死んでいない者」という、ある人物の葬儀の日の様子を描いた小説を書いている。そこにあるのは「死んでいない者」の言葉が作り出す世界だけだ。しかし、その「場」に濃厚に漂ってしまうのが「死んでいなくなった者」の気配だったりもする。作家は「死」に関してあっち側とこっち側から描こうとしていたようなのだが、それは、映像を使っても変わらないはずだ。 ぼくは、自分が、あっち側に対する「拒否」とでもいう感じの思い込みを、どうしても譲れないんだなと、つくづく思い知った。死ねば死にっきりでいいじゃないか。そういう感じだ。 しかし、この監督は、ほとんど最後のシーンでゴーストに紙切れを読ませた。途中で、死んでいない人たちにちょっかいを出すシーンもあった。そうでなければ映画にならないのかもしれない。見ている人は、ぼくも含めて、そこを見たいのかもしれない。その成り行きに腹が立ったというわけではない。でも、この監督とは気が合わないと思った。 監督 デビッド・ロウリー David Lowery 製作 トビー・ハルブルックス ジェームズ・M・ジョンストン アダム・ドナギー 製作総指揮 デビッド・マドックス キャスト ケイシー・アフレック(C) ルーニー・マーラ(M) 原題 「A Ghost Story」 2017年 アメリカ 92分 2019・06・27 追記2020・02・25 ぼくは滝口悠生という作家の「死んでいない者」という作品が、初めて読んだ時からずっと気にかかっている。だからと言って読み返すわけでもない。ただ、感想が上手く書けない。この映画に対する、何となくな拒絶感が、その小説に対してもあるのだろうか。最近、そんなことをふと考えた。 ボタン押してね! にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.08.03 22:20:54
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