Miki Dezaki 「主戦場」 元町映画館
神戸では元町映画館が唯一の上映館でした。話題沸騰のドキュメンタリー映画、監督 Miki Dezaki「主戦場」を観ました。
公開が始まって、連日満員らしく、元町映画館のフェイスブックも
「おはやめに!」
を繰り返していました。仕方がないので、9時30分、元町映画館に駆け付けました。
「おっ、今日は、お早いですね。」
「当たり前やん。いざとなったら頑張るねん。今、買うたら何番やねん。
「1番!」
「おー1番か、ラッキー。ほな、三宮行ってくるわ。二時に帰ってきたらええねんやろ。」
「はい。ところで、どちらへ?」
「シネ・リーブル。」
「映画三昧?いいですねえ!いってらっしゃーい。」
13時45分。帰ってきた元町商店街4丁目、映画館の前は人盛り。なんと、立ち見ありの大盛況でした。もっとも。1番のシマクマ君は余裕の着席。お客は大半がぼくよりは高齢。騒ぐ人もなく、実に穏やかな上映開始14時10分。途中、若干の笑い声がありましたが、これといったトラブルもなく16時25分終了。
見終わって、なんとなく、ため息をつきました。
映画はインタビューで構成されていました。「顔」のクローズアップが繰り返し出てきます。顔、顔、顔です。
元町映画館という小ホールは、全席で66席なのだそうですが、今日は立ち見を入れて、100人ほどの人が、画面に見入っていました。上映は先週からだったと思いますが、満員御礼が続いているようです。
こうして集まった人たちは、何が見たくてやってきているのでしょう。当たり前のことですが、繰り返し登場する、胸糞が悪くなるような、こんな顔を見たくて、ここに来たんでしょうか。そう思うと、ため息が出たというわけです。
ぼくだけかもしれませんが、みなさん、「ほんとうのこと」が見たくてやってきたのではないでしょうか。
ぼくには、この映画を見る前に二つの「ほんとうのこと」が描かれているかどうか、という基準がありました。それが描かれていなければ、ぼくにとってこの映画はダメだ、そういう基準です。
一つ目は「従軍慰安婦」という制度の、女性、ひいては人間に対する人権蹂躙についての基準です。
例えば「慰安婦」という言葉のなかには制度的な「差別」や「人権蹂躙」が構造化されていると思います。しかし、新聞をはじめメディアは歴史用語として平気で使っています。「差別用語」という考え方自体が疑わしいという意味では、べつに使えばいいと思いますが、「慰安婦」ではなくて「売春婦」という使用法で、問題のすり替えを平気でする桜井某などの発言を耳にすると首をかしげたくなります。
「慰安婦」ということばには、この言葉を日本語以外の言葉に翻訳するとすれば、おそらく「奴隷」か「売春婦」という訳語しかないという所に、最初の「ほんとうのこと」が隠されていると思いますが、一般的な「日本人」は気づいていないか、あるいは気付かないふりをしているではないでしょうか。これを映画がどう撮るのかということです。
二つ目は、近隣の国々を植民地、軍事的占領地として統治し、大東亜共栄圏を口実にした「この国=大日本帝国、ならびに日本国」の「国家の犯罪」についてです。
話は少し横道になるかもしれませんが、70年代、熊井啓が「サンダカン八番娼館 望郷」という映画にした山崎朋子の労作「サンダカン八番娼館」(文春文庫)という本があります。
あの本で、山崎さんが明らかにしたのは「からゆきさん」の悲劇と、それを制度化していた国家の犯罪とその隠蔽という歴史事実だったと思います。内地の人間の目に直接触れない場所で、「慰安婦」・「売春婦」制度が「日本人」や「朝鮮人」の女性をいかに虐待し、搾取し、その事実が、いかに口封じされてきたか。彼女たちが帰ってきた、敗戦後の農村共同体から、いかに差別されたか。植民地であった地域の女性たちが受けた被害は、宗主国に政治的・倫理的責任があるのは当然でしょう。にもかかわらず戦後の日本政府がいかに口をつぐんだか。
映画の中で「からゆきさん」を演じていた田中絹代がルポライター栗原小巻からもらった、誰もが使っているバスタオルに頬ずりして泣いたシーンが暴いたはずの、この国の「ほんとうの犯罪」は、内地の貧しい農村や漁村でだけで犯されたとは考えられません。むしろ、植民地においてこそ、夜郎自大にやりたい放題だったにちがいないでしょう。その歴史的事実は、どういう理由で、何処に置き去りにされてきたのでしょう。
あの映画の中で、女性たちに「いい仕事がある」と誘いかけ、ボルネオに連れて行ったのは、「女衒」と呼ばれた人身売買業者でした。彼らが、軍や国家のお先棒担ぎだったことは明らかだったし、それが、戦後社会で歴史的に暴かれてきたのではないでしょうか?
ぼくにとって、話題のこの映画が、果たして、この二つの「ほんとうのこと」をどう扱っているのか、そこが試金石でした。
映画は見事に、ぼくが頭の中で考えていた「ほんとうのこと」を、ごく当たり前の前提として映像化していました。
では何故ため息になってしまったのか。なぜ、スッキリしないのか。
映画「主戦場」に戻ります。この映画には三通りの顔が映し出されていました。
一つ目は、人生をそのまま語ることによって、上に書いた「ほんとうのこと」にもてあそばれた怒りと悲しみが言葉と表情になっている顔でした。「サンダカン八番娼館望郷」の「からゆきさん」がルポライターに語り始めた時の、そしてタオルに頬ずりして泣いたあの顔です。
二つ目が、確認した事実によって「ほんとうのこと」にたどり着き、それを口にしているという、穏やかで冷静、事実を受け止めようとする意志を表した顔でした。
三つ目が、口から出てくる言葉が、新しい「ほんとうのこと」を、捏造することを目的としていることを知っている、あるいは意図しながら語る、文字通り「騙り(かたり)」をこととしている顔です。
目を泳がせながら、相手を非難するためには、自らの論理矛盾にすら気付かない政治家のファナティックで、「知性」のかけらさえ失っている顔でした。発言は憂慮と深慮の結果であり、知性的な行為であるかのように演技していることがあらわなテレビ・タレントの顔、軽薄極まりない顔もありました。強面で主張することで不安を隠している教科書改変主義者のひきつった顔もありました。誇大な妄想の世界の出来事を根拠に国家と教育を騙る、元アメリカ大使の息子の尊大な顔もありました。それらが三つめの顔でした。
数え上げていきながら気づくことは、彼らは一様に権力に依拠していることの「安心」、あるいは「慢心」に支えられた「顔」をしていたということです。「国家」が憑依した顔であったといってもいいと思います。
ため息の理由はここにあります。
映画は、実にシャープに、これらの顔の「面の皮」をはぎ取っています。あわてた「顔」たちは上映中止の訴訟を起こしたというニュースもありました。しかし、「ほんとうのこと」から目を背けることで、「美しいもの」を捏造したがる不思議な感受性が、今、この国に、想像を絶する勢いでわだかまっているということも事実なのです。
映画館で、この醜い顔の群れにうんざりしながら、怒りをこらえて、じっと座って映像を凝視している人が、むしろ、少数者かもしれないという、新しい「ほんとうのこと」に直面する経験は、ある意味苦行と呼ぶべきかもしれませんね。 やれやれ・・・。
監督 ミキ・デザキ
製作 ミキ・デザキ ハタ・モモコ
脚本 ミキ・デザキ
撮影 ミキ・デザキ
編集 ミキ・デザキ
音楽 オダカ・マサタカ
キャスト
トニー・マラーノ 藤木俊一 山本優美子 杉田水脈
藤岡信勝 ケント・ギルバート 櫻井よしこ
吉見義明 戸塚悦朗 ユン・ミヒャン イン・ミョンオク
パク・ユハ フランク・クィンテロ 渡辺美奈
エリック・マー 林博史 中野晃一 イ・ナヨン
フィリス・キム キム・チャンロク 阿部浩己
俵義文 植村隆
原題「Shusenjo: The Main Battleground of the Comfort Women Issue」
2018年 アメリカ 122分 2019・06・21元町映画館no11
追記2022・08・04
最近「教育と愛国」というドキュメンタリーを見て、やたら気分の悪さを訴えている自分を感じて、この映画を見た時にはどうだったのかと、古い記事を読み直しましたが、反応はそっくりでした。
要するに、ぼくは、ああいう人たちの顔を見るのが嫌いなのですね。そういえば、同居人ははなから「あんな人たち、きらい!」
といって映画館にはいかなかったのですが、それでも見ておく価値は、それぞれの映画にあったんじゃないでしょうか。
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