瀬々敬久「菊とギロチン」シネリーブル神戸 ネットで予約しようとして、老人料金が1500円なので、首をかしげて、やり直しても、やっぱりその値段なので、「ああ、そうか。」と納得しました。長い映画は高いんだ。
当然ですが、この監督さんも初めてのお付き合いで、どうなる事かは全く分からないで見ました。見終わって、闇鍋ってありますよね、何が入っていてもとりあえず食べましょうというやつ。あれに付き合わされた感じでした。
「大正」という時代があって、「シベリア出兵」があって、「関東大震災」があって、「朝鮮人や大杉栄の虐殺」があったころの「日本」と呼ばれる世界に、平成という時代の「日本」の人たちが、どうも、知らんぷりをしたがっているらしい、何かがあった。
監督さんは、その何かを描こうとしていたとぼくは思いました。その感覚にぼくは
「異議なし!」
と、叫ぶことに何の躊躇もありません。
「平成」という、この国で、日々感じている違和感だけでなく、たとえば大正アナキズムには思想自体に興味があります。そのうえ、おんな相撲なんて、まあ、そもそも知らなかったことだし、観ながらの興味と共感は「ホー、フムフム、そうか、そうか。」という感じでした。
しかし、映画はダメでしたね。闇鍋に付き合わされている感じから、抜けることが出来ませんでした。
理由は簡単で、ぼくは監督のアジテーションが聞きたくて映画館に行っているのではなくて、映像がつくる世界を観に行っているからです。この映画なかで、なぜだか登場人物が「叫ぶ」んです。なんか、うるさいんですよね。
もちろん、印象に残ったシーンもあります。必死の思いで逃げてきた相手に再び 暴力を振るわれる女性の白い足でした。それは、アジテーションなんてものが無化されるシーンでした。それが、映画ってもんじゃないでしょうか。
話を戻すと、気になったのは、女性だけではありませんが、そこで聞こえてくるセリフの多くが、ぼくの「祖母たち」や「祖父たち」が決して使うことのない、おそらく戦後社会の言葉、現代語だったことです。
アジテーションするアナーキストたちの観念用語としては許せますが、当時の前時代的農村社会(これは監督も批判的に描いている)、百姓の暮しから逃げてきたおんな相撲の力士たちが、「おなご」とは言っても「女」と自称したりするとは、ぼくには思えません。「平等」や「自由」なんて言葉は、意味も知らなかったでしょう。それがセリフとして聞こえてくるのはどういうわけなのか、ぼくにはわかりませんでした。
ぼくは、このところ、新しい、といっても50代、40代ですが、監督さんの映画を観はじめているわけですが、失礼を承知で言いますね。作品に、何とも言えない「退廃」を感じることがあります。それは、監督自身の主張の過剰で、直接的な露出です。
あほらしいから書いていませんが、熊谷守一を描いた映画にも感じました。見ててめんどくさくなるんです。まあ、「モリのいる場所」は、最後になって啞然とさせられて、心の中で「馬鹿かこいつは!」と罵倒するというイカリになってしまったのです。山崎努も樹木希林も好きなのにです。困ったもんです(笑)。
丁寧に作るというのは、大事なんじゃないでしょうか。大正時代のロケーションに現代が透けて見えるのは全然気にしないけど、セリフくらいは考証していただきたいということなんじゃないでしょうか。でないと落ち着かないでしょ。
ついでに付け加えると、こういう長尺フィルムにする必然性も、よくわかりませんでしたね。見ないでいうのもなんですが、テレビでやってる、相変わらずの「大河ドラマ」とかの、無駄な長さを思い起こしました。
なんか、ボロカスですね。( ̄∇ ̄;)ハッハッハ。まあ、そんな悪いわけではありません。でも、まあ、人にはススメナイ感じでしたね。
監督 瀬々敬久
脚本 相澤虎之助 瀬々敬久
撮影 鍋島淳裕
編集 早野亮
音楽 安川午朗
ナレーション永瀬正敏
キャスト
木竜麻生(花菊ともよ)
韓英恵(十勝川たまえ)
東出昌大(中濱鐵)
寛一郎(古田大次郎)
2018年 189分 日本 2018・07・30・シネリーブルno30
追記2019・09・16
「令和」とやら名づけられた世界が始まっています。「大正」という世界に瀬々敬久が見つけて、差し出そうとした忘れられた大切なことが、今やなかったことにされつつあります。そういう時代に、この映画のように差し出し続ける根性と勇気をぼくはバカにしているわけではありません。どちらかというと支持しているのです。
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