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橋本治「勉強が出来なくても恥ずかしくない①~③」(ちくま新書)
入学したての中学生や、高校生にとって、一学期の中間テストは結構緊張を感じる出来事であるかもしれませんね。高校によっては、結果が順位となって示されるということもあって、不安な出来事でもあるでしょう。 「大学での勉強は、『自分の考えたい事をきちんと考える』というものでした。ケンタくんには、考えたいことがいくらでもありました。『世の中は、どっかおかしい』とか『どうしてみんな、大学に行くんだろう?』とか、『なんかへんだな』と思うことは、いくらでもありました。『自分の考えたいことを考える』ということがわかって、ケンタくんは、『小学校や中学校や高校の勉強は、そういうことができるようになるためにするもんなんだな』ということもわかりました。そして、『今頃そんなことわかっても、遅いかな』とも思いました。」 大学生になった主人公がこんな述懐をするのですが、実はここで主人公が『自分の考えたい事をきちんと考える』といっている「考えたい事」とは何か、それはどこからやってくるのか、という大切なポイントは小説には書かれていません。そこが、この小説の不思議の所以なのです。 ぼくはこの小説を読みながら、哲学者の鶴見俊輔が書いた「読んだ本はどこに行った」(潮出版社)の中でこんなことを言っていることを思い出しました。 私は、森喜朗前総理大臣の『日本は天皇を中心とする神の国であるぞ、それを国民に納得していただく』という発言を聞いた時に、これ前に聞いたことあるぞ、と思った。梅棹なんだ。ただし、彼が日本は神の国であるという場合、考えているのは八百万の神、アニミズムなんですよ。だから意味が違う。もちろん『天皇を中心とする』とは言わない。森さんが言ったのは、戦前の軍国日本と手を切らない方向でしょ。梅棹は似たことを言っても、やおよろずの神なんです。柳田國男も同じで軍国主義には行かなかった。だから高野長英あり、柳田國男あり、武谷三男あり梅棹忠夫ありという風に考えていけば、日本には日本流のプラグマティズムがある。実はこの千年来の日本の大衆思想は、プラグマティズムなんです。それを退けているところに日本の大学の哲学がある。それとプラグマティズムとが相容れないのは当然だ、というのが、私の感想ですネ。『思想は論じるものではなく、使うものである』という梅棹の考え方は、フランクリンに似ている。 急に人の名前がズラズラ出てきて何のことかわからないと思うのですが、要するに橋本治の小説の主人公は鶴見俊輔がここで言っているプラグマティックなことを考え始めていたに違いないということなのです。
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最終更新日
2023.06.09 13:37:22
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