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井上ひさし「一週間」(新潮文庫)
2010年に、作家の井上ひさしが亡くなって10年近い歳月が流れました、彼が生きていたら、昨今の世相をどう思うのでしょう。 亡くなった2010年に出た、彼の最後の小説「一週間」(新潮文庫)について、当時、高校生に向かって、こんな「読書案内」を書きました。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 小説家の井上ひさしが今年の四月に肺ガンで亡くなった。高校生諸君にはさほど馴染みの名前というわけではないでしょうが、五十代の後半にさしかかっている世代には、子どものころからお世話になった人だという人もいるかもしれません。 1964年、東京オリンピックがありました。それを観るには一家に一台テレビが必要だと、一大ブームになったテレビ普及の大波が、田舎の山の中の、ぼくの家にも押し寄せてきました。もちろん、波に乗ってテレビが流れ着いたわけではありません。電気屋さんが、軽トラックに積んで持ってきました。付け加えれば、その時のブームは都会ではカラーテレビだったらしいのですが、我が家にやってきたのは白黒テレビでした。 「テレビの時代」が始まりました。当時十歳だったぼくにとって、「テレビの時代」の始まりを象徴するのが「ひょっこりひょうたん島」という番組でした。夕方の5時45分から、たった15分間放送された連続人形劇は、ぼくの記憶の中に「子ども時代」の代名詞のようにくっきりと刻印されています。きっと面白かったんでしょうね。主題歌も歌えます。 その番組、「ひょっこりひょうたん島」の台本を書いていた放送作家が井上ひさしと山元護久の二人だったということを知ったのは、もちろん、大人になってからだったのですが、そのとき、すでに、井上ひさしは、この国を代表するような人気小説作家になっていました。 「モッキンポット師の後始末」(講談社文庫)、「青葉繁れる」(文春文庫)のような自伝的な青春小説に始まり、直木賞受賞作「手鎖心中」(文春文庫)のような江戸の戯作者を主人公にした作品群。SF大賞を受賞した快作「吉里吉里人(キリキリジン)」(新潮文庫)に至る小説群。加えて、山のように戯曲、エッセイの作品群を発表し続けていた井上ひさしは、ぼくの二十代の読書の山の一つでした。実際、以来、ぼくが買い込んだ彼の書籍は段ボール箱一箱では納まりきれません。 どの作品も 「どうぞお読みください、損はさせませんよ。」 と案内してしかるべき作品なのですが、中でも「吉里吉里人」こそが、彼の最高傑作だと、ぼくは思います。小説好きの友人が 「吉里吉里人は、途中で挫折した。」 というのを聞いて、少し不思議な気がしたものです。 というのは、「笑い」を方法とした小説で理想の国家を描くという前代未聞の壮大な試みであるこの小説は、あろうことか東北出身者が「笑い」の方法として東北弁を使用するという逆転の発想によって、「東北弁」を笑う中央集権国家「日本」を相対化するという、とんでもない傑作で、いわば井上ひさしの集大成といえる作品だと、ぼくは思っているからなのです。 たしかに、東北の小さな村が日本から独立するという設定ですから、全編にわたって東北弁の会話で出来上がっているこの作品は、読むのに、少々苦労するのですが、読み終わって、笑いから覚めた時の哀感の深さは、「ずぬけている」と、ぼくは思うのです。 まあ、ぼくにとってそういう井上ひさしが死んでしまったこと、それは、ちょっと、「ああ、そう」というふうには済ませられない事件だったわけです。 で、彼が最後に残した作品「一週間」(新潮社)が六月の末に出版されました。というわけで、読まないわけにはいかないのでした。 私見ですが、井上の小説の面白さは、三つの要素に支えられてきたと思います。 一つ目は「言葉」です。 おもちゃのようにもてあそばれ、収集家の標本箱のように積み上げられ、「笑い」の小道具として、次から次へと繰り出される言葉の洪水です。彼はことばに対する fetishismの人です。 二つ目は徹底した「取材」です。 作品の舞台は現実の場所に地図化され、年表化され、現実との継ぎ目は巧妙に偽装されてゆきます。彼の作品のどこまでが事実で、どこからが創作なのか、見分けることは至難の業といっていいでしょう。 そして三つ目が、「奇想」による現実の相対化です。 徹底して調べた現実に、最後にはどんでん返しをもたらすような大嘘が登場するのですが、その、大嘘の中に現実への批評性が潜んでいます。 さて、「一週間」へ話を進めましょう。 「シベリア抑留」という言葉をご存知でしょうか。 第二次世界大戦末期、対日参戦したソビエト・ロシア政府が、旧満州、内モンゴルをはじめとした中国戦線において、軍人、民間人合わせて50万人を越える敗戦国日本の男性を捕虜とし、長い場合は十年を超えて強制労働させた歴史的事件です。本当は、国際法に反した犯罪です。 収容所の非人道的待遇の結果、飢餓や病気で死亡した人が五万人を下らない悲惨な出来事であったにもかかわらず、戦後の日本では忘れられ、話題にされることもあまりありません。ソビエト体制崩壊後、1993年、来日したロシア共和国大統領エリツィンが謝罪したことを記憶している人が、諸君の中にいるのでしょうか。 「一週間」は、その「シベリア抑留」という歴史的事件の中に、「レーニンの手紙」という奇想を仕込んだ小説なのです。 作品は1946年、ハバロフスク収容所。終わったはずの戦争を戦い続ける哀れな日本人兵士のある一週間を描いています。 「笑い」の小説家、井上ひさしの最後の小説が、日本人が忘れ去ってしまっている「シベリア抑留」という戦後史を題材に選んでいることが、まず印象的でした。 晩年、「九条の会」の呼びかけ人に名を連ねた井上ひさしが生涯描き続けてきたのは、「孤児院暮らしの少年」、「弾圧の中の江戸の戯作者」、「子供たちを戦争で失っていく母や父」たちでした。 彼らは決して勝利することのない生活者ですね。つつましく、しかし、時代の波にもみくちゃにされて、やっとのことで生き延びている人々でした。 で、そういう人間のことを、民衆といいますね。その民衆を救う方法は「笑い」である。これが井上ひさし生涯のテーゼだったと思います。 この最後の作品で、井上ひさしは 「五十年前に国家と国家の都合でシベリアで、いや、戦争で死んでいった人たちがいて、彼らは、あれから一度も笑ったことがない。それを過去のことにしていいのでしょうか。」 とでも言っているように、ぼくは感じました。 ぼくの叔父の一人に、数年間のシベリアの抑留生活を経験し、帰国後、30数年間、小学校の教員として、まじめに暮らしてきた人がいます。彼は、80歳を前に「シベリア体験」を、住んでいる地域の人に語り始めています。 「あんな、あそこで死んだ人たちの無念をなんとかしたい。これをし残して死ぬんは、死んでも死に切れんちゅうこっちゃな。」 「なぜ今になって?」と理由を訊いたぼくに、叔父が言った言葉です。 井上ひさしの最後の小説と響き合うものをぼくは感じました。 乞うご一読。(記事中の画像は蔵書の写真です。)2010・10・12(S) にほんブログ村 ボタン押してね! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.04.30 15:39:34
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