是枝裕和 「 海街diary」 こたつシネマ 仕事をやめて、映画を観たり、小説を読んだり、徘徊したりしているときに、毎日出かけていくところがあって、なにがしかの定期的な報酬が約束されている生活の時とは違う時間の流れ方を意識することが、ふと、あります。
小説を読んでいても、映画とかを見ていても、人の中に降り積もった時間の描写に惹かれます。自分自身でも、前からではなくて、後のほうから時間が流れてくるのを感じることがあります。
「海街ダイアリー」という映画をテレビで見ました。翌日の夕暮れ時、垂水駅から乗った山陽バスが星陵台にさしかかったときに、前日の映画に二度あった高台のシーンが思い浮かびました。
映画そのものは葬儀のシーン、娘たちの父親の死から始まります。それから、三人の娘の祖母の法事の集まりがあり、最後に町の食堂のおかみさんの葬儀があって、映画は終わります。それぞれ美しい娘たちの喪服姿を見る映画であるかのようでした。
最初の葬儀の後、四女スズの案内で登った一つ目の高台は死んだ父親がスズを、二つ目の高台は最初の妻との間にできた長女幸を連れてきた、それぞれの街が見渡せる高台でした。
映画の、その時、娘たちが暮らす街の、海の見える高台に、幸がスズを連れてきたシーンを見ながら、ハッとするような気がして、
あっ!
と息をのみました。何をアッと思ったのか、バスの中で気づいた気がしました。
人は高台から見下ろすときに、目の前に広がる街で生きて暮らしている人々の世界を眺めながら、実は、失われたものや、死んでしまったものに見入ってしまっているのではないでしょうか。
「失われた時」の中に立ち止まるように、「思い出」と呼んでいる記憶のかけらのようなものが、次々と脈絡もなく浮かんでくることに意識を奪われていながら、奪われていることに気づかない。そういう「生きている」ことのどうしようもなさを包み込んでくれる「風景」が高台からの眺めにはあるのではないでしょうか。
この映画には、一度も父親の、具体的な姿は映し出されません。それが、なんとなく引っかかっていました。しかし、この二度の高台のシーンは、いなくなった父親、あるいは、失われた家族というべきかもしれませんが、あの時、そばに立っていた、その姿を、娘たちの顔の中に映し出していたのかもしれません。
やけに、まじめに仏壇に手を合わせる娘たちの姿が思い浮かんできました。
娘たちは「死」、あるいは「失われた家族の時間」に縛られて生きて来たのではなかったか。
「なるほど、そうだったのか。」
食堂のおばさんの葬儀の後、喪服のまま、高台ではなく、浜辺に出て、未来を語りあい、寄せてくる波と風に戯れる娘たちの後ろ姿は何とも言えない美しいシーンでした。
そうか、ようやく、あそこで、娘たちは、それぞれの「生」、それぞれの今のほうへ歩きだしたんだ。
なんだか、うれしい気持ちになってバスを降りました。
監督 是枝裕和
原作 吉田秋生
キャスト
綾瀬はるか(香田幸)
長澤まさみ(香田佳乃)
夏帆(香田千佳)
広瀬すず(浅野すず)
2015年・日本・126分 2018・11・01・コタツno1
追記2019・11・13
是枝裕和「万引き家族」を見ました。表題をクリックしてみてください。マンガの「海街ダイアリィ」はこちらから。香田千佳役だった夏帆という女優さんが主役で出ている映画を見た。「ブルーアワーをぶっ飛ばす」ここをクリック。
香田佳乃役の長澤まさみさんも「キングダム」で怪演していた。感想はこちらをクリックしてください。
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