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カテゴリ:映画 パレスチナ・中東の監督
ジアド・ドゥエイリ「判決、ふたつの希望L’insulte」パルシネマしんこうえん
パレスチナがある、レバノンがある、イスラエルがある、。ぼくは何も知らない。イスラエルの少年兵士の死を「運命は踊る」なんていう題名で商品化する社会に生きている。その遠さが何とも言えない。そんなときがある。 パレスチナの男たちが施工不良住宅の修繕工事をしている。アパートのベランダの雨どいにつながっていないパイプから水が垂れて、工事の作業員たちに汚水がかかる。二階のベランダで花に水をやっていたのは自動車修理工をしているレバノンの男だった。 パレスチナの男たちのリーダーが罵声を浴びせる。レバノンの男は上からにらみつける。それがすべての始まりだったのか。 二人がにらみ合い、一方が殴りつけて一方が骨折し、暴行傷害をめぐって裁判が始まる。 内戦の過去。ムスリムとキリスト教徒の争いの悲惨。ガザ空爆から逃れ難民化した不幸。故郷に帰れないレバノン人。行き先のあてもないディアスポラのパレスチナ人。 やり手の二人の弁護士は、それらを、それぞれ原告(トニー)、被告(ヤーセル)の過去として、ほとんど執拗というべき態度で暴き出していく。悲惨でしかない、それぞれの体験が、それぞれの心の中に憎悪の種を蒔いてきた過去が、フラッシュバックされてゆく。どちらの憎悪が正当か。 トニーとヤーセルの苦難の人生を覆っている「怒り」、「憎悪」、「悲しみ」の実相が、何にも知らない「日本人」であるぼくの中に広がっていく。 この二人には何の罪もない、少なくとも、見てもいない人間、「遠く」でうわさに聞いていた人間に裁く権利はない。 裁判の終盤、ヤ―セルはトニーを訪ね、トニーがヤ―セルにしたように侮辱し、殴らせる。それぞれが違った世界に生まれ、働き、生活する二人のあいだの解決はそこで付けられる。 パレスチナ人の恥辱を煽り立てた、レバノン人の態度に対する反省を促すように、二対一で、殴ったヤ―セルは無罪になる。 「人間であることの誇りを傷つけてはならない。」 監督ジアド・ドゥエイリが、実に、堂々と結論付けたメッセージは印象的だった。 私たちは根っこのところで、このことを忘れていないだろうか。忘れていることに気付きもしない、おろかな自己肯定の「平和」。夜郎自大に「国家」を美化する無知。考え始めると暗澹とするこの国の現実が浮かんでくる。「人間であることの誇り」とは何か、ぼくたちは真剣に考える土台そのものを失いつつあるのではないだろうか。 この映画が映し出しているのは、気の短い貧乏人の喧嘩騒ぎに対する、海の向こうの「大岡裁き」の経緯ではない。「人間であることの誇り」を失いつつある、ぼくたち自身の足元なのではないだろうか。 二本立ての一本だったが、もう一本の不完全燃焼を忘れさせるいい気分だった。 「運命は踊る」はこちらをクリックしてください。 監督 ジアド・ドゥエイリ Ziad Doueiri 脚本 ジアド・ドゥエイリ ジョエル・トゥーマ 撮影 トマソ・フィオリッリ 編集 ドミニク・マルコンブ キャスト アデル・カラム(トニー=レバノンキリスト教徒) カメル・エル・バシャ(ヤーセル=パレスチナ難民) リタ・ハーエク(シリーン・ハンナ=トニーの妻 ) クリスティーン・シュウェイリー(マナー=ヤーセルの妻) カミール・サラーメワ(ジュディー・ワハビー=弁護士 ) ディアマンド・アブ・アブード(ナディーン・ワハビー=弁護士) 原題「Linsulte」 2017年 レバノン・フランス合作 113分 2019/03/20・パルシネマno15 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.12.21 00:24:49
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