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カテゴリ:映画 アメリカの監督
フレデリック・ワイズマン 「ニューヨーク・ジャクソンハイツへようこそ」
元町映画館no26 今日はチッチキ夫人と「二人でお出かけ」映画です。元町映画館「ワイズマン特集第4弾」、「ニューヨーク・ジャクソンハイツへようこそ」ですね。 昨年2018年の秋だったか、今年2019年の春先だったか、神戸アートヴィレッジ・センターで上映していましたが、プログラムの日程を間違えて見損ねていました。本当は、この映画がワイズマン初体験になる筈だったのですが、先に「ニューヨーク公共図書館」を見て、すっかりとりこになっての5本目ということです。 ニューヨークという町のドキュメンタリーはロン・マン監督の「カーマイン・ストリート・ギター」を今年(2019年)の9月に見て、これまた、すっかり魅了されていたので、今回は見る前からすっかりのぼせているような状態で映画館の椅子に座りました。 期待を裏切らないワイズマンでしたね。ジャクソン・ハイツという町の人々の暮らしのドキュメンタリー。そこで話されている言語は、なぜだかこの数字だけは記憶に残ったのですが、なんと、167なんだそうです。 キリスト教の教会、イスラム教のモスク、ユダヤ教のシナゴーグ、仏教やヒンズー教の、なんというのだろ?まあ、とにかく、小さかったり、けっこう古そうだったりはするのですが、いろんな宗教施設が映し出されて、そこに集っている人々のさまざまな言葉、そして顔、顔、顔。 レストラン、コインランドリー、肉屋、喫茶店、老人ホーム、街角、いろいろな場所にカメラは向けられていて、祈ったり、話し合ったり、演奏してたり、踊ったり、もちろん、働いたりしている、その場所で生きている人間が映し出されます。 肉屋の解体シーンでは、ニワトリだかアヒルだかの首がちょん切られて、羽がむしられて、内臓が処理されて、半分に切り裂かれて、鶏肉になるところまでキチンと映します。もう、それだけで見ごたえがありますね。隣の、チッチキ夫人は、思わず、のけぞって、悲鳴を上げそうになったりもしていました。 喫茶店なのか、ちょっとしたラウンジのようなところでダベッテいる、ちょっとお金持ち風の女性が 「好きになった映画俳優はみんなゲイなのよ。」 とか言ってるのニは、大いに笑えます。 その笑いの一方で、公民館と呼ぶのがいいのでしょうか、集会所に集まっているセクシャル・マイノリティの人たちが、自分たちが集まれる公共の場所の確保や、「神戸まつり」のような街のお祭りで、行進する相談しています。実際の行進には市長までやってきて 「マイノリティの人たちを支援する!」 って、堂々と演説しているのです。 老人ホームでは100歳を越える女性の 「お友達が、みんな死んじゃって誰もいない。」 という悩みの相談に、おそらく、90歳とかの高齢の女性が応じていて、 「さみしかったら、お友達をお金で買えばいいのよ。あなたお金は持ってるんだから、何でもお金で買えるのよ。」 とか答えているシーンなんて、笑えるとか、ほほえましいなんて言ってられない迫力ですよね。 それぞれのシーンに驚くというより、爽快な人間模様というべき映像の重ね方で、 「やっぱり、さすがワイズマン!」 というのでしょうか、映し出される映像に対する「信頼」のようなものが湧いてきて時間を忘れるんです。 大型商業施設が進出してくる再開発が、ニューヨークのこの街にも押し寄せていて、肉屋のおやじさんや、小さい小売店の大将たちが集まって相談しています。 それぞれの人が、ジャクソン・ハイツで商売を続けてきた来歴を語り合っています。皆さん、自分たちが愛し、一緒につくってきたはずの町が、何だかわからない 「新しい金儲け」 のために壊されていく理不尽を見つめている目をしています。 街を歩いたり、街角でくつろいだりしている人が映り、ラテン音楽の音色が響いています。エンドロールが回りはじめて、なんというか、「さみしい気分」がじわじわ広がってきます。 ワイズマンは、決して声高に「批判」を叫ぶわけではありません。しかし、一人一人の「小さな人間」達の営みを、丁寧に映し出す彼の映像は、「小さな人間」の営みを、外から壊そうとする、何か正体不明の巨大なものに対して、はっきり「NO!」を突き付けていると思いました。ぼくが、彼の映画を見ながら感じる「安心感」は、多分、そこから生まれているにちがいないのです。 にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.12.22 21:58:02
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