中村哲・澤地久枝「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」(岩波書店)
「九条の会」の発起人に名を連ねる澤地久枝さんが、空爆下のアフガニスタンで井戸を掘り、水路を作り続けていた、医師中村哲さんをインタビューした本があります。「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」と題されています。題名が、大仰だとお思いの方も、騙されたと思ってお読みになってください。
映画「花と竜」で、その名を知られた玉井金五郎の孫であり、「土と兵隊」、「麦と兵隊」で知らている作家火野葦平の甥っ子で、昆虫好きで、赤面恐怖症であった少年時代の中村哲君の回想から、1980年代の初頭、全くの自腹でアフガニスタンに渡り、診療所を開き、歴史的な大干ばつの飢餓の危機と、アメリカ軍による空爆の中、ペシャワール会のスタッフを率いて命がけの人助けを続けた2010年に至る、人間「中村哲」の「ホンネのすがた」を聞きだしたインタビューです。
澤地さんは、この本の巻頭にこんな文章を引用しています。堅苦しいと思われるかもしれませんが、是非お読みください。ここに中村さんの活動の、公式的な要約と、彼の考え方が凝縮して表現されています。
2001年10月13日、衆議院「テロ対策特別措置法案」審議の場に参考人として出席した中村哲さんのこんな発言です。
「私はタリバンの回し者ではなく、イスラム教徒でもない。ペシャワール会は1983年にでき、十八年間間現地で医療活動をつづけてきた。ペシャワールを拠点に一病院と十カ所の診療所があり、年間二十万名前後の診療を行っている。現地職員二百二十名、日本人ワーカー七名、七十床のPMS(ペシャワール会医療サービス)病院を基地に、パキスタン北部山岳地帯に二つ、アフガン国内に八つの診療所を運営。国境を超えた活動を行っている。
私たちが目指すのは、山村部無医地区の診療モデルの確立、ハンセン病根絶を柱に、貧民層を対象の診療。
今回の干ばつ対策の一環として、今春から無医地区となった首都カブールに五カ所の診療所を継続している。
アフガニスタンは一九七九年の旧ソ連軍侵攻以後、二十二年間、内戦の要因を引きずってきた。内戦による戦闘員の死者七十五万名。民間人を入れると推定二百万名で、多くは女、子供、お年寄り、と戦闘に関係ない人々である。
六百万名の難民が出て、加えて今度の大干ばつ、さらに報復爆撃という中で、痛めに痛めつけられて現在に至っている。
アフガンを襲った世紀の大干ばつは、危機的な状況で、私たちの活動もこれで終るかもしれない。アフガンの半分は砂漠化し、壊滅するかもしれないと、昨年から必死の思いで取り組んできた。
広域の大干ばつについて、WHOや国連機関は昨年春から警告し続けてきたが、国際的に大きな関心は引かなかった。アフガニスタンが一番ひどく、被災者千二百万人、四百万人が飢餓線上にあり、百万人が餓死するであろうといわれてきた。
実際に目の当たりにすると、食料だけでなく飲料水が欠乏し、廃村が拡がってゆく事態で、下痢や簡単な病気でおもに子どもたちが次々と命を落としていった。
私たちは組織を挙げて対策に取り組み、「病気はあとで治せる、まず生きておれ」と、水源確保事業に取り組んでいる。今年一月、国連制裁があり、外国の救援団体が次々に撤退し、アフガニスタンの孤立化は深まった。
水源の目標数を今年以内に一千カ所、カブール診療所を年内に十カ所にする準備の最中に、九月十一日の同時多発テロになり、私たちの事業は一時的にストップした。今、爆撃下に勇敢なスタッフたちの協力により、事業を継続している。
私たちが恐れているのは、飢餓である。現地は乾期に入り、市民は越冬段階をむかえる。今支援しなければ、この冬、一割の市民が餓死するであろうと思われる。
難民援助に関し、こういう現実を踏まえて議論が進んでいるのか、一日本国民として危惧を抱く。テロという暴力手段防止には、力で抑え込むことが自明の理のように議論されているが、現地にあって、日本に対する信頼は絶大なものがあった。それが、軍事行為、報復への参加によってだめになる可能性がある。
自衛隊の派遣が取りざたされているようだが、当地の事情を考えると有害無益である。」
「私たちが必死で、笑っている方もおられますけれども、私たちが必死でとどめておる数十万の人々、これを本当に守ってくれるのは誰か。私たちが十数年かけて営々と気付いてきた日本に対する信頼感が、現実を基盤にしないディスカッションによって、軍事的プレゼンスによって一挙に崩れ去るということはあり得るわけでございます。」
「アフガニスタンに関する十分な情報が伝わっておらないという土俵の設定がそもそも観念的な論議の、密室の中で進行しておるというのは失礼ですけれども。偽らざる感想でございます。」
この発言に澤地さんは怒りをこめてこんなふうに付記しています。
「議事録では笑った議員を特定できない。しかし語られている重い内容を理解できず、理解する気もなく笑った国会議員がいたのだ。」
「命がけで医療と水源確保を行ってきた中村哲の十数年間へ、「日本」が出した結論を心に留めたい。」
ここからが、インタビューの本番になります。
澤地「先生はもう60歳を越えられましたね」
中村「ハイ。1946年の九月十五日生まれですから、もう超えています。」
澤地「あまりごじしんのことかたりたくないとおかんがえですか。」
中村「どちらかというと、自分をさらけ出すのはあまり好きではないです。でも、必要であれば話はしますので。」
どうも、何でも、ペラペラしゃべるタイプではなさそうです。ともあれ、こうして、会話が始まりました。最初は、あのトレードマークのような「髭と帽子」の話でした。
何時間かけて、インタビューされたのか、詳らかにはしません。読みでのあるインタビューだと思いますが、さすがに澤地久枝さんですね、最後の最後に、中村さんの性根の根っこに触れるような、こんな会話になったのです。「このお子さんたち二人が生まれたのは、92年ですか。」
「92年です。」
「何月生まれですか。」
「十二月。」
「そして、2002年の十二月。」
「十二月に生まれて、十二月に亡くなったんですか。」
「だったと思います。ちょうど十歳でした。」
「小学四年生ですか。」
「ごめんなさい。四月一日生まれです。」
「先生の、今までの人生の中に生涯忘れられないクリスマスというのがありますよね。これは患者さんの苦しみの問題だけれども、そのほかに、「あれは自分にとって厳しかったな」というのは、この坊ちゃんが亡くなったことですか。」
「そうです。」
まるで、尋問のような問い詰め方なのですが、愛児の発病と死について、ここまで、悲しみを越えて、聞きただしてきた緊張にみちた態度が、そのまま伝わってくる口調なのです。
ここまで読んで、読者であるぼくは、冒頭での国会での発言は、ご子息の不治の病の発病を知った最中の出来事であり、彼の発言を笑った国会議員に対する澤地さんの怒りの、もう一つの理由にも気づくことになるのでした。
「アフガニスタンが直面する餓死については、自民党だとか共産党だとか社民党だとか、そういうことであはなくて、一人の父親、一人の母親としてお考えになって、私たちの仕事に個々人の資格で参加していただきたい。」
2001年、中村医師の国会証言の中のことばを、澤地さんは「訴える一人の父親の心中には、不治の病床の愛息の姿があったはずである。」
と、この会話の記述の途中に記しています。
死んでしまった中村哲の「真心」が2001年の証言の中に残されているのではないでしょうか。
「医者、井戸を掘る」・「空爆と復興」は表題をクリックしてください。
追記2023・12・21
池澤夏樹の「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」(作品社)をパラパラやっていて、2010年の3月25日の日記に出ているのを見つけて、ちょっと嬉しかった。
かなり長い日記の最後に彼はこう書いています。
中村哲のような偉人をどうあつかえばいいのか?
彼個人を崇拝することに意味はない。自分には決してできないことをする人物への思いは容易に妬みや悪意に変わり得る。イラク人質事件の際の大衆のグロテスクな反応を思い出せばわかることだ。
彼だけではなく、彼が指さす先を見る。アフガニスタンを見る。アメリカのやりかたに徹底的に反抗する。それを是とする議員を次の選挙で落とす。そして、言うまでもなく、中村哲とペシャワール会を支援する。
そういう当然の結論に至るためにこの本はあるのだろう。(P284)
彼をして、ここまで叫ばせる状況が2010年にはあったわけですが、2019年に、その中村哲が、まさに、凶弾に倒れ、コロナ騒ぎで明け暮れ、アフガン空爆などなかったかのように、新しい戦争が次々と始まっている現在があります。
中村哲が指さした向うを、もう一度見据えるための覚悟が求められていることを、一人で痛感する今日この頃ですね。
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