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ゴジラ老人シマクマ君の日々

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2019.12.25
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諏訪哲史「アサッテの人」(講談社文庫)

『あちらこちらに未だ田畑を残す町並みを、バスはのろのろと寝ぼけたようにすすんでいった。と、書いたところで不意にポンパときた。― 虚を衝かれた拍子につづく言葉を眼前から取り落とし、不様にうろたえる今の自分の面の皮などまだ捨ておけるにしても、・・・・・・要するに、こんなのっけからポンパとこられたのではこのまま小説を続ける気も失せるというもの、出端を挫かれるとはまさにこのことで、すでに胸中では語り手である「私」がとある冬の日の午後、駅から乗り継いだ市営バスに揺られて叔父の寓居をたずねてゆく様子が、これ以上なくありありと浮かんでおり、降りそうで降らない澱んだ曇天の下、いやいやながらやっつけ仕事に向かう「私」の不平顔、乗り合わせた二三の年寄もさらに言葉なく、バスは役場、農協を過ぎ、病院前に来たところで残らず年寄りたちを降ろしてしまうと、最後部の座席に未だ一人乗っているのを知ってか知らでか、のんきな運転手のみるみる調子づく鼻歌、とこうしたさほど褒められるものでもない月並みなシチュエーションが、脇から順にあれよあれよと霧散してゆくのを両手振り回して搔き集め、急いで紙面に結わえてしまおうと焦る間にもポンパの余波に押され流され漂うは我が家の自室、見飽きた机上の風景であり、かといって一行のみしたためた原稿を破り捨てる気概もあればこそ、むろん今の自分にはそれさえ及ばず、ただただ自らのふがいなさの前に如何ともする術見つからぬまま、ポンパポンパと相も変わらず魅せられたような自失のつぶやき、時に「ポンパった!」の張り裂けるような叫びもろともに我を取り戻そうとする意志の垣間見えもするものの現に果たせず、自分かこのまま紙面に突っ伏して気を失うのではないか、これはつまり世にいうところの発狂に他ならぬのでは云々と、脱魂し高みから見下ろすようなもう一人の自分がまるで他人事のように思案に暮れている。・・・・・・とはいえ、一行のみしたためられた紙面に臨んで呆然としている書き手の図を、いかにも作為ありげにしたためているこのもう一人の自分、つまり正真正銘の現実の自分というものも、ぶっちゃけた話ここにこうして現実のキーを叩いているのであってみれば、その事実をあえて意識の上に上らせないまま小説のおしまいまでポーカーフェイスを決め込み続けるというのもまた、それはそれで息の詰まるバカげた努力に思わないこともない。が、他方こうした知らぬ顔の持続こそがすなわち小説の自立を保証するといった通念もいまだに歴然として存在するわけで、‥‥・何はともあれ、今の自分に与えられるべき書くための口実はどうしても例の因果なバスの中にあるものらしく、その緩やかな道行きに合わせて、自分の筆は、否ボード上のキーは、この不案内な小説のどこともしれぬ終末に向かって弛まず運行されねばならないのである。』​​
​つづけてこう記されます。​​

幾十枚かの草稿を経て、結果、やむなく折り合いをつけることになりそうな『アサッテの人』最終稿の書き出しがすなわちこれである。

​ 諏訪哲史という人は、この作品で芥川賞をとりました。その時読んだのですが忘れていました。今回、本を読んでおしゃべりする会のテーマになったので、当時購入して、どこかにあるはずの単行本が『アサッテ』状態で、仕方なく文庫を、もう一度買って読みなおしました。で、驚きました。面白いんです。

引用したのは、この作品の冒頭です。めんどうくさがってとばさずに、ちょっと読んでみてください。いかがですか、変でしょ。

 思うに、変な理由は三つ。

 一つ目は、「文」が異様に長いことですよね。一行目の最初の句点と二行目の句点、特に、一行目は、実質、引用の提示ですから、無いも同然で、そうなると、二行目から十五行目迄一文ということです。そのあとも、結構長くて、『 』には、四つの「文」しかありません。そのうえ、この文を書いている作家は、登場人物をバスに載せて、叔父さんの家に行かせていたはずなのですが、いつの間にか、自宅で小説を書いていますよね。悪文の見本のような書き方ですが、きっとわざとですね。

​ 二つ目は、『 』の描写は、一つ目で明らかになった作家らしき人物の、彼自身による、「ポンパ」との格闘のようなのですが、実は、鍵カッコのあとの「『アサッテの人』最終稿の書き出しがすなわちこれである」という表現を読むと、こっちが作家のようですね。

​​ その結果「ポンパ」に困惑している作家、「アサッテの人」を書き始めている作家、そして、それら全部を書いている作家と、これだけで、三人の作家が、あるいは「わたし」が登場していますね。バスに乗っていた人と、それをクヨクヨ書いている人を分ければ、四人と言えないこともありません。​​

 「『昔々あるところにおじいさんとおばあさんが・・・』と語っているおばあさんがいた」と、おばあさんは孫に語り始めました。

 こんな感じですよね。おそらく、これもわざとですね。

​​ 三つ目は、既述の内容ですね。「と、書いたところで不意にポンパときた。」という表現がありますが、「ポンパ」って何でしょうね?それに「ポンパ」は「バスに乗っている時」に来たのか、「バスに乗っていると書いている時」に来たのか?わかりますか?何だか、よくわかりませんね。​​

 一つ目と二つ目の、変な感じをお読みになって、小説の技法とかお好きな人には、「入れ子」型メタ・フィクションなんていう言葉を思い出す人もいるかもしれませんね。ある種の、まあ、こういっちゃあなんですが、「小賢しい」前衛小説の手法ですね。ぼくも、そう思って、残りの160ページを一気に読みました。

 結果、どうだったでしょうか?どうも違うようですね。「方法」として、メタ・フィクションが選ばれた、「一つ、こういうふうに書いてみようか」というわけではなさそうです。そうならざるを得ない理由こそが、この小説の肝だと思いました。

​​​ そして、その理由というの、原因というのかが、三つ目の「ポンパ」の謎ですね。「ポンパ」の不意打ちを食らった人は、必然的に、この「入れ子」の世界に入っていくほかないんですね。じゃあ、「ポンパ」って何だということになりますが、それは作品をお読みいただくほかありません。​​​

​​​ 多分、「ことば」は世界を描くことができているのかという、普通は考えない「疑い」にとらわれた人にやってくる「ポンパ」、いや逆でしょうか、「ポンパ」に不意打ちされた人は「ことば」の世界から『アサッテの人』にならざるを得ないというべきでしょうか。
 現前する世界が発語を禁止するかのような体験としての「吃音」、「ドモリ」ですね、を作中で描いていますが、そのあたりには小説の「すごみ」を感じましたね。
​​ 
​​​ともあれ、生きている人間ならだれでもが出会っている、「ありありとした現前」に、我々はちゃんと出会うことができているのでしょうか。そういえば、唐突ですが、保坂和志の猫の生きる歓びの話が面白い理由には、「ポンパ」の不意打ちとの格闘が隠されているんじゃないか。そんなことを思い浮かべる「キョウコノゴロ」でした。なかなか「アサッテ」に行くのは難しいですね。​​​


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最終更新日  2020.12.04 22:00:45
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