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ヌリ・ビルゲ・ジェイラン「読まれなかった小説」シネリーブル神戸
2020年、初鑑賞は「読まれなかった小説」というトルコ映画でした。ヌリ・ビルゲ・ジェイランという監督は「雪の轍」という作品をはじめ、カンヌ絵映画祭のパルムドールを複数回とっている人らしいですが、ぼくは知りませんでした。 三時間十分という長さと、チェーホフ、ドストエフスキーに捧げるというキャッチコピーに惹かれて選びました。昨年の秋から、長い映画にハマっているのかもしれませんが、長いからといって感動するとは限らないということに、そろそろ気付き始めてはいます。でも、「見たゾオー!」という満足感はやはりあるわけで、一年の最初の作品はこれかなと期待してやってきました。 青年がバスに乗って帰ってきます。高台の上から谷間の町が見渡されて、映画が始まりました。 会話、会話、会話、この映画は主人公の「青年」と誰かが語り合ったり、青年が誰かにお願いしたり、言い合いしたり、ひたすら「青年」をめぐる会話の洪水でした。 「父と子」という、かなり古典的な葛藤が「青年」の側から語り続けられている感じです。「私小説」というジャンルがありますが、似た印象を受けました。そう思って見ているからかもしれませんが、カメラはほとんど「青年」の肖像を撮り続けている印象です。 作家を夢見る、この凡庸でおしゃべりな青年の周囲の世界は、対照的ともいえる印象的なシーンの洪水です。 ガルシア・マルケスや、多分、見たことのある女流作家(バージニア・ウルフ?)の写真が貼られた書店の光景。父を語る母のチェーホフを想わせるセリフと降りしきる雪。港の上空を飛び交うカモメの群れ。 中でも強烈なのはマルケスのイメージです。無数の蟻にたかられる赤ん坊のエピソードは「百年の孤独」の世界になかったか?こんなふうに、ふと、思い浮かぶイメージの際限のない乱舞。 そんなふうに意識を揺さぶられてしまえば、生活者としてはどうしようもない博打うちであるにもかかわらず、異様に善人である、この父親は、どの作品だったか(「罪と罰」のマルメラードフか?)はわからないけれどドストエフスキーの登場人物の誰かに似ていることになっていきます。 トロイの木馬の腹中の闇。深い井戸に垂れ下がる首吊りのロープ。死んでいる父の顔と腕にたかる蟻。村に取り残された少女の風に舞い上がる長い髪。すべてがアレゴリカルで意味深なんです。 要するに監督は「文学」へのオマージュとでもいうのでしょうか、捧げものとしての映画というコンセプトとひたすら戯れる映像をつくりあげようとしていたようです。 とどのつまり、父親が放置していた涸れ井戸を、再び掘り始めた青年は、まさに、志賀直哉の「和解」の主人公そのものだったのではないでしょうか。 「そうか、その井戸を掘るのか?」 しみじみしてしまった最後のこのシーンでは、やはり哄笑すべきだったということに歩きながら気づきましたが、後の祭りでした。 イヤ、本当に摩訶不思議な、それでいて魅力的な映画でした。 「いやはや、なんとも、・・・」 蛇足ですが、山場で流れる挿入曲は、多分、バッハなんですが、トルコの映画にバッハが流れるのも、ちょっと不思議な感じがしました。しかし、まあ、世界文学が相手みたいですから、音楽はやっぱりバッハかな? 監督 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン 2018年189分 2020・01・08シネリーブル神戸・no40 ボタン押してね! ボタン押してね! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.12.22 21:45:13
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