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高橋源一郎「非常時のことば」(朝日新聞出版)
市民図書館の棚を徘徊していて、なんとなく手に取って、読み終わって気付いた。 とても大きな事件が起こった。ぼくたちの国を巨大な地震と津波が襲った。東日本のたくさんの街並みが、港が、津波にさらわれて、原子力発電所が壊れた。たくさんの人たちが亡くなり、行方不明になり、壊れた原子力発電所から、膨大な量の放射性物質が漏れだした。 高橋源一郎さんはこの文章に続けて、戦後66年間忘れていた「言語を絶する体験」ということが、実際に起こった結果、人々が感じた「ことばを失う」ということに論及してこう書いています。 少なくとも、同じテーマについて、これほどまでにたくさんのことばが産み出された経験は、ぼくたちにはない。それにもかかわらず、ぼくたちの多くは、「ことばを失った」と感じているのである。 震災をめぐって、途方もない量のことばが、人々の口から、あらゆるメディアから、吐き出され続けている世界を前にして、ある疑いを口にします。 「どんどんことばが出てくるなんておかしいんじゃないだろうか。」 そして、鶴見俊輔のこんな文章を引用します。 庭に面した部屋で算術の宿題をしていると、計算の中途で、この問題は果たしてできるのだろうかと疑わしくなる。宿題をする時だけでなく、一人でただ物を考えている際にもこの感じがくる。 人々の口から吐き出されてくることばが、鶴見俊輔の言う「一人で考える」時に感じる「めまい」を失っていないか、という疑いです。 「ことばを失う」ほどの現実に向き合った人間が、ことばを取り戻すときに、ことばのどんな姿にたどり着くのでしょうか。 批評家加藤典洋の「3・11死神に突き飛ばされる」、「恋する虜 パレスチナへの旅」を残して死んだジャン・ジュネの「シャティーラの四時間」、そして石牟礼道子の「苦界浄土」という文章を読み返しながら、高橋源一郎さんは最後にこう叫びます。 「そうだったのだ、この場にかけていたのは祈祷の朗誦だったのだ」 えっ、朗誦って何? 「ことばはなんのために存在しているのか。なんの役に立つの。ことばは、そこに存在しないものを、再現するために存在しているのである。」「ジャン・ジュネ」 うん、それはわかる。うーん、でも、ようわからん。 水俣病の患者は、国や会社によって、この社会によって。殺されたのである。あるいは、徹底的に破壊されたのである。 なるほど、「祈り」であり「音楽」であることばの姿か。「非常時のことば」というこのエッセイで引用されている三人の文章に対する高橋さんの読みの展開が、ここに来るとはと、うなりました。 中でも、文中で「あねさん」と呼ばれている石牟礼道子が「苦界浄土」のことばを生みだしていく描写は、このエッセイの白眉ともいうべき文章で、読んだはずなのに忘れていたとは、と、情けない限りです。 本書には、「ことばを探して」・「2011年の文章」という、あと二つのエッセイが収められています。特に「ことばを探して」では、川上弘美の「神様」という小説ついての文章が、目からうろこでした。それは「神様」の案内で書きたいと思います。 追記2020・02・14 「神様」・「神様2011」の感想はこちらをクリックしてみてください。 ボタン押してね! ボタン押してね! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.08.31 17:28:19
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