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保坂和志「自分という反―根拠」追悼総特集「橋本治」(文藝別冊・KAWADEムック)
今日は一月二十九日。作家の橋本治が亡くなって一年がたちました。今、ここで「案内」している「追悼特集『橋本治』」(KAWADEムック)の中に、作家の保坂和志が橋本治の死に際して「群像」という文芸誌に書いた「自分という反 ― 根拠」という追悼の文章が載っています。 その文章の冒頭で、彼はこんなことを書いています。 ぼくは、ここまで読んで、通夜の会場まで話しながら歩いている、橋本治と保坂和志の後ろ姿を思い浮かべながら、二人ともを「本」というか、それぞれの作品でしか知らなということに気付いて愕然とするのです。 ぼくが思い浮かべている、夕暮れの道を歩いて行く二人は、いったい誰なのでしょうね。これが保坂和志の文章だということだけは確信できるのですが、読んでいるぼくの足だか、背中だかの「力が抜けて」いくのを感じます。 保坂和志は「脚の力が抜けて」しまうのをこらえるようにして、あの頃の橋本治が書いた「革命的半ズボン主義宣言」(河出文庫)を引き合いに出し、その「すごさ」を語りつづけます。 橋本治は全共闘世代だったが全共闘は嫌いでひとりの闘いをはじめた、だから橋本治に揺さぶられた若者たちは一人の闘いをすることになった、‥‥‥ これが、保坂の結論であり、別れのことばですね。生涯「革命的半ズボン主義」者だった橋本治の仕事のすごさは、一見、互いに、似ても似つかない、「向く方向が違っている」保坂和志の作品群が生まれてくる拠り所を支えていたことに気付づかされたぼくは、ここでもう一度愕然としながらも、思わず膝を打って座り込んでしまうのでした。 「客観的な妥当性」をなんとなくな根拠にしながら、さまざまな作品を読みたがる、ぼく自身の「読み」というパフォーマンスを抉られる言葉だったのです。しかし、一方で、ぼくにとって、面白くてしようがないにもかかわらず、どうしても面白さの説明ができなかった、この二人の作品の「読み」の入り口を「案内」してくれているていかもしれない言葉でもあったのです。 本当は、所謂、命日に、橋本治の最後の文章をさがしていたのです。彼の命日は「モモンガ忌」というそうです。が、まあ、そのあたりは次回ということで。 ボタン押してね! にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.06.09 23:53:51
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