|
橋本治「草薙の剣」(新潮社)
2019年という年は、橋本治といい、加藤典洋といい、今の時代をまともに見据えていた大切な人を立て続けに失った年でした。少しづつでも遺品整理のように「案内」したい二人の文章はたくさんあります。 「草薙の剣」(新潮社)という橋本治が最後に残していった作品について、内田樹が「昭和供養」というエッセイで論じているのを追悼特集「橋本治」(文藝別冊)で読みました。 時代というものを作る膨大な数の「普通の人」は、みんな「事件の外にいる人」でたとえ戦争の中にいても、身内が戦死したり空襲で家を焼かれたり死んだりした「被害者」でなければ、「自分たちは戦争のの中にいた当事者だ」という意識は生まれにくいでしょう。だから日本人は、戦争が終わっても、戦争を進めた政治家や軍人を声高に非難しなかったのでしょう。ただ空襲のあとの廃墟に立って、流れる雲を眺めている―それが日本人の「現実」との関わり方なんでしょう。(橋本治「人のいる日本」を描きたかった「波」2018年4月号) この文章を読んで、橋本治の小説の登場人物たちが、「桃尻娘」の榊原玲奈ちゃんや醒井涼子さん、木川田源ちゃんから始まって、「草薙の剣」の6人の男性に至るまで、ここで橋本治がいう「普通の人」達であったことに思い当たります。 「草薙の剣」という作品で名前を与えられている登場人物は昭生(あきお)、豊生(とよお)、常生(つねお)、夢生(ゆめお)、凪生(なぎお)、凡生(なみお)の6人です。「桃尻娘」ではみんな高校生でしたが、この人物たちの年齢について、橋本治自身がこういっています。 こうやって書き写しながら、作品を読んでいた時の動揺の理由を再確認しています。高度経済成長の昭和から平成にかけて、就職し結婚して、子どもを育て、定年を迎えたぼくは「昭生」そのものであり、二つの大震災を経験して大人になった「夢生」と「凪生」は私の子供たちそのものだったのです。 そして、読んでいた時と同じ疑問に突き当たります。ぼく自身や、ぼくの家族のような何の変哲もない「普通」の男たちを並べて見せたこの小説が何故面白いのだろう。ぼくをつかんで離さないどんな工夫がこの作品にはあるのだろう。そんな疑問ですね。 誰もが口にしそうな答えの一つは「時代」を書いているからだというものです。たしかに、時代という背景が浮かび上がってくる所に橋本治の作品の面白さの一つはあります。 しかし、何となく腑に落ちなかったのです。以前の「リヤ家の人々」にも共通する印象が説明できていないという感じでしょうか。ある種の「哀切」感に引っ張られるように読んでしまうのは何故なのでしょう? 過ぎ去った「時代」への懐かしさをくすぐるような、ちょっと楽しい「幸せ」な感じとは違います。終わってしまったどうしようもなさがもたらす「空虚」が、また別の顔をして、どうしようもなさだけが、同じように積み重なっていくのを見ている哀しさとでもいうべきでしょうか。 で、「昭和供養」に戻ります。さすがは内田樹ですね。スッパリと言い切っています。 橋本さんは自分のことを「普通の人」だと思っていた。普通の人の言葉づかいで「事件の外」の人生を描くことに徹底的にこだわった。けれども、それだと作品は恐ろしく退屈で無内容なものになりかねない。橋本さんが作家的天才性を発揮したのはこの点だったと思う。橋本さんはこの放っておくと一頁も読めば先を読む気を失うほどに「退屈で無内容な普通の人の独白」に読みだしたらやめられない独特のグルーヴ感を賦与したのである。(「昭和供養」文藝別冊「橋本治」) 普通の人はただ大勢に無抵抗に流されるしかない。ただし、橋本さんはこの「流される速度」に少しだけ手を加えた。加速したのである。数行のうちに一年がたち、頁をめくると十年がたっている。(「昭和供養」文藝別冊「橋本治」) 「普通の人」の人生を領する散文的で非絵画的な出来事を高速度で展開することによって、橋本さんは「普通の人の人生」を絢爛たるページェントに仕立てて見せた。空語と定型句を素材にしてカラフルな物語の伽藍を構築して見せた。(「昭和供養」文藝別冊「橋本治」) 「流される速度」があっという間に加速され、「空語と定型句」で「無内容な」ことばをはき続けている「普通の人」の姿が鏡に映っています。ぼくが感じた「哀しさ」の理由は、多分ここにあるのでしょうね。 ボタン押してね! ボタン押してね! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.06.10 21:05:53
コメント(0) | コメントを書く
[読書案内「橋本治・加藤典洋・内田樹・高橋源一郎・他」] カテゴリの最新記事
|