|
岡田暁生 「西洋音楽史」(中公新書)
15年ほど前の「読書案内」の記事です。相手は高校生でしたが、今となっては話題が少々古いですね。2005年出版の本なので、《2004年書物の旅》に入れるのにも、少々抵抗がありました。というわけで、そのまま載せます。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ だいたい休みの日に何をしているのかと聞かれて返答に困る。何にもしていない。趣味と呼べるようなことは何もない。たいていゴロゴロして本を読んでいるが、本を読むことを趣味だと思ったことはない。ある種の中毒のようなものだろう。 ためしに岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)を読んでみると、これが意外に面白かった。 西洋芸術音楽は1000年以上の歴史を持つが、私たちが普段慣れ親しんでいるクラシックは、十八世紀(バロック後期)から二〇世紀初頭までのたかだか二〇〇年の音楽にすぎない。 こういうまえがきで始まるのだが、たとえば、誰でも知っているモーツアルトが登場するのは230ページ余りある本書の100ページを越えてからだ。そこまではどっちかというとヨーロッパ史における音楽の役割の講義という意味で面白いのがこの本の特徴だ。 音楽は社会と切り離せないんだそうだ。たとえば十六世紀の画家ティツィアーノの「田園の演奏」なんていう絵は全裸の女性が笛を吹いているピクニックの様子を描いているんだけど、それってどんな理由からなのかとか。それは、バロックと呼ばれる新しい音楽の誕生と関係があるらしいんだよね。 宗教改革がヨーロッパに広がり、グレゴリオ聖歌のようなカトリック教会の音楽に対してプロテスタント教会の音楽、誰もが口ずさめるコラールという音楽形式が生まれてきて、民衆に受け入れられていった結果なんだそうだ。 やがて、そこからバッハが生まれてくるという。世界史の先生でこんな講義をする人はきっといない。 ところでぼくが感じていた疑問にはどう答えているのかというと、答の一つは引用したまえがきにもあるとおり現代は『世界音楽』の時代に入っているということで、いろんな川の流れの混沌とした化合物になっているって言うことだ。 そして、もう一つの答として、著者は現代音楽の保守性について言及したあとで、こういっている。 ポピュラー音楽の多くもまた、見かけほど現代的ではないと私には思える。アドルノはポピュラー音楽を皮肉を込めて『常緑樹(エヴァーグリーン)』と呼んだが(常に新しく見えるが、常に同じものだという意味だろう)、実際それは今なお『ドミソ』といった伝統的和声で伴奏され、ドレミの音階で作られた旋律を、心を込めてエスプレシーヴォ(表情豊かに)で歌い、人々の感動を消費し尽くそうとしている。ポピュラー音楽こそ『感動させる音楽』としてロマン派の二十世紀における忠実な継承者である。くわえて、現代を「神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水」の時代だと喝破することで本書を終えている。 ぼくなりにまとめれば、ジャンルにはそれぞれの水脈があるわけだから、確かに違う音楽だといえる。しかし、たとえば流行するポピュラー音楽が共通の感受性、「感動したい」「癒されたい」に支えられ、形式的に新しさなんて何もないのに大衆的な消費の対象となってロマン派を継いでいるように、十九世紀にはじまった商品としての音楽はショパンであろうが流行歌であろうが、訳のわからない現代音楽であろうが共通の社会現象、感動を追い求める同じ形式のヴァリエーションとして見ることができるということだ。 みんなが聴いている音楽って、好みは違うかもしれないけど、案外似たものかもしれないということだね。なんだか話が難しそうになってしまったが、素人にも分かる西洋音楽史で、お薦めだと思いましたよ。 何せクラシック音楽史だから今度テレビ化される二ノ宮知子『のだめカンタービレ』(講談社コミックス)で予習してから読むといいかもしれない。あの漫画はCDブックも 出ているそうだからね。(S)2006・10・03 追記2020・02・11 最近ではすっかりユーチューブとかのお世話になることが多い。サンデー毎日な日々なわけで、何となく同じ曲をBGMで聞くことが多い。この本を読んで、著者が気に入っていろいろ読んだ、案内したい本も多い、でも、読みなおす気力にかけていて…。困ったもんだ。 ボタン押してね! ボタン押してね! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.06.02 01:59:11
コメント(0) | コメントを書く
[読書案内 「芸術:音楽・美術・写真・装幀 他」] カテゴリの最新記事
|