加藤典洋「大きな字で書くこと」(岩波書店)(その1) 文芸評論家の加藤典洋が昨年、2019年の5月に亡くなりました。その時に手元にあった岩波書店の「図書」の四月号に彼が連載していた「大きな字で書くこと」というコラムを引用した記事をブログに書きました。それから半年後、11月に岩波書店から「大きな字で書くこと」という題の本が出版されました。
2017年の一月から「図書」に連載されていた「大きな字で書くこと」というコラムと、信濃毎日新聞に2018年の四月から、月に一度連載されていた「水たまりの大きさで」というコラムが収められています。
巻頭には「僕の本質」という詩が配置されている小さな本です。連載の二回目に当たる記事にこんな文章を見つけました。
私は何年も文芸評論を書いてきた。そうでない場合も、だいたいは、書いたのは、メンドーなことがら、込み入った問題をめぐるものが多い。そのほうがよいと思って書いてきたのではない。だんだん、鍋の中が煮詰まってくるように、意味が濃くなってきたのである。
それが、字が小さいことと、関係があった気がする。簡単に一つのことだけ書く文章とはどういうものだったか。それをわたしは思い出そうとしている。
私は誰か。なにが、その問いの答えなのか。
大きな字で書いてみると、何が書けるか。
ここで何が意図されているのか、本屋さんで配布されていた「図書」で「大きな字で書くこと」を読んでいた当時も、この本を手にして、この記事にたどり着いた時にも、ぼくにはわかりませんでした。
読み続けていると、「父」と題されたコラムが数回続きます。そこでは、戦時中、山形県で「特高」の警察官だった父親の行跡がたどられ、青年加藤典洋の心の中にあった父に対するわだかまりが、そっと告白されていました。
ここまで読んで、ようやく、いや、やっとのことで気づいたのでした。加藤典洋は「私は誰かと」と自らに問いかけ、小さな自画像を描こうとしています。それは「死」が間近にあることを覚悟した批評家が、自分自身を対象に最後の「批評」を試みていたということだったのではないでしょうか。
しかし、2019年の7月号に載った「私のこと その6 テレビ前夜」が最後の記事になってしまいました。
小学校4年生の加藤少年は、山形市内から尾花沢という町に転校し、貸本屋通いの日々、読書に熱中しながら、家にやって来たテレビに驚きます。
この年、私は町の貸本屋から一日十円のお小遣いで毎日一冊、最初はマンガ、つぎには少年少女世界文学全集を借りだしては一日で読み切るため、家で読書三昧にふけったが、なぜ講談社の少年少女世界文学全集を小学校の図書室から借りなかったのか、ナゾである。小学校によりつかなかったのだろうか。
マンガでは、白戸三平の「忍者武芸帳」。こんなに面白いマンガを読んだのは初めてで、興奮して眠れなくなった。つげ義春、さいとう・たかを、辰巳ヨシヒロなどのマンガも独力で発掘した。マンガがなくなると、少年少女世界文学全集に打ち込んだ。「点子ちゃんとアントン」「飛ぶ教室」などのほか、「三国志」「太平記」まで大半を読破し、教室で、今の天皇は北朝ではないか、など先生を困らせる質問をした。
この年、「少年サンデー」と「少年マガジン」が発売される。毎週、本屋に走ったが、マンガが週間単位で詠めるのは、信じられない思いだった。
このあと、テレビが家に入ってくる。そしてすべてが変わる。自宅の居間で「鉄腕アトム」を見ながら、なぜこれが無料で見られるのかどう考えても理解できなかった。電波がどこから来るのかと思い、テレビの周りに手をかざしたのをおぼえている。(「私のこと その6 テレビ前夜」)
これが、31回続いた連載の最終回、生涯の最後まで「私は誰か」を探し続けた批評家加藤典洋の絶筆です。
ご覧の通り、この文章の中で、彼はまだ問い続けています。テレビが家に入ってきてすべてが変わったことは次回に語る予定だったに違いありません。
自画像としてのエッセイとしても、描き始められている顔の半分は白いまま残されています。
テレビが象徴する経済成長の戦後史が始まったところです。中学生、高校生だった加藤少年について、まだ「大きな字で書くこと」がたくさん残っていたはずなのです。無念であったろうと思います。それ以上のことばはありません。
ただ、この本の案内としては「水たまりの大きさで」と、冒頭の詩について言い残している気がしています。それは(その2)として書いておきたいと思っています。
追記2020・03・11
脈略のない追記ですが、今日は東北の震災の日です。コロナ騒ぎで追悼行事が中止だそうです。あったからと言って、遠くでニュースとして見るだけなのでしょうが、何だか、とても哀しい気分になりました。
「加藤典洋の死」という記事はこちらからどうぞ。
追記2021・09・03
加藤典洋のテレビの話を読み直しながら、彼が6年生だった時に幼稚園児だった自分のことを思い出しました。小学校の3年生くらいになったころ近所の家でもテレビが購入され始めましたが、我が家にはありませんでした。現在、2021年、ほとんどテレビを見ない暮らしをしていて、何の不便も感じませんが、40軒ほどの集落で、一番遅くテレビが購入され、家の茶の間に設置された思い出はかなり鮮やかに覚えています。
あれから、半世紀以上のときが立ちましたが、テレビが1930年代の「映画」とか「ラジオ」とかとは、また違った迫力で、ある種の「全体主義」を作ってきた道具だったことにようやく思い当たるうかつさを感じでいます。
最近スマホをいじるようになってテレビの時代が終わりつつあることを実感していますが、テレビよりもずっと便利で手軽ですが、かなり危ない道具であることは間違いなさそうです。
加藤典洋が、「テレビの思い出」で語り始めていることの先に、テレビの時代を論じた「敗戦後論」があると思うのですが、「便利」という言葉が作り出している「スマホの時代」のことを、彼ならどう考えるのでしょうか。
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