ちばてつや「ひねもすのたり日記(3)」(小学館)
さて、「ひねもすのたり日記」第3巻ですね。後期高齢者の日常を生きるちばてつや先生、マンガ大学の学長さんまで務めるご活躍で、とても「ひねもすのたり」どころではなさそうですが、ここで語られる交友や日常の失敗談は、彼の人柄を感じさせて笑えますね。
もう一つのメイン、思い出の記の読みどころは、マンガ家「ちばてつや」誕生秘話でした。
時は昭和三十年代の初めころですね。「貸本屋」ってご存知でしょうか?薄暗い棚にずらりとマンガの単行本が並んでいて、ビニール・カバーがついていました。一冊十円だったと思いますが、子どもの小遣いの額で数日間(?)借りて返すわけです。
ぼくが育ったのは、村によろず屋が一軒しかない田舎でしたが、最寄りの国鉄の駅の近所に一軒だけ貸本屋さんがありました。全国で3万件の貸本屋があったそうです。グリコの十粒入りのキャラメルが十円の時代です。
ぼくは週刊の少年マンガ誌、「少年マガジン」と「少年サンデー」が創刊された後の中学生でしたから、この「貸本」文化の恩恵には直接には与かってはいません。しかし、貸本マンガブームがマンガ家を育てました。
赤塚不二夫、さいとう・たかを、白土三平、永島慎二、ぼくが二十代にかぶれたマンガ家たちですが、皆さん貸本マンガを描くことでマンガ家になったようです。ちばてつやはその最後列の一人だったようですね。
マンガが好きな高校生、「千葉徹彌」くんが貸本マンガの出版社「日昭館」の国松社長に出会い、マンガのイロハを教えられ「マンガ」を描きはじめます。
初めて原稿料をもらった作品が、貸本マンガ「復讐のせむし男」というマンガだそうです。高校生マンガ家の誕生ですね。やがて、倒産の憂き目にあう、恩人国松社長とその奥さんの最後のアドヴァイスが筆名でした。
国松社長は本名の千葉徹彌を眺めながらこういいます。
「固たっくるしくて、むずかしい・・・いっそひらがなにしたらどうだ?」
少年マガジンでマンガを読み始めた世代にとっては「ちかいの魔球」、「紫電改のタカ」、そして「あしたのジョー」のマンガ家、全部ひらがなの
「ちばてつや」誕生!
です。
二つ目の読みどころはこのページあたりですね。「ちかいの魔球」の誕生秘話です。
まだ高校生だった「千葉徹彌」くんはマンガ家ちばてつやにはなったものの、最初のスランプに直面します。「ちばてつや」を生み出してくれた出版社「日昭館」の倒産、苦手な「少女マンガ」家としての苦悩の日々が詳しく語られています。救ったのは「少年マンガ」を描く場を与えた「少年マガジン」でした。
若い人はご存じないでしょうが、「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉があった時代です。プロ野球の巨人軍をネタにすれば、必ず売れるという営業方針でやってきたのが「野球マンガ」の執筆依頼でした。苦しみ続けた少女マンガから逃げ出せるという喜びで、一も二もなく引き受けたちばてつやですが、なんと彼は野球を知らない、キャッチボールすらしたことのない青年だったのです。
現在65歳のマンガ老人シマクマ君が、人生の最初に熱中した野球マンガ「ちかいの魔球」の作者はピッチャーズ・マウンドのプレート板の存在すら知らなかったという事実の告白には、もう、笑うしかありませんね。
このマンガの思い出は「消える魔球」ですが、ここから「巨人の星」に至る、野球マンガの魔球伝説が始まったわけですから、歴史に残る名作といっていいかもしれませんが、描いている人は「ドシロウト」だったということこそ歴史に残りそうですね。
おそらく、次号は講談社専属マンガ家「ちばてつや」の話が読めるに違いありませんね。
追記2024・08・20
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