W・アルカティーブ E・ワッツ「娘は戦場で生まれた」シネ・リーブル神戸
シマクマ君の映画館徘徊復活の二日目、2020年6月2日はシネ・リーブル神戸にやって来ました。ほぼ50日「引きこもり生活」だったせいで、三宮行きの高速バスに乗るのも二月ぶりです。駅前で降りてあっと思いました。工事中のビルが成長していました。
梢はもはや夏ですが、コロナ騒ぎの中ビルは成長していました。スゴイもんです。そこから、久しぶりにセンター街を通りました。
結構な雑踏を歩いて、古書店「あかつき」に立ち寄りました。一冊本を買い込み、おばさんと挨拶をしてシネ・リーブルに到着しました。
50日前と、そんなに変わっていないのが不思議です。三島由紀夫はあの頃見ました。ここでマスクを装着し、受付で顔見知りの青年と再会を喜び合い、客席に座ると客は数人でした。この映画館の場合、いつでもそんなものなので違和感はありません。
映画が始まりました。「娘は戦場で生まれた」です。
シリアのアレッポの町に最後まで残った、反政府派の女性ジャーナリスト、医師であるその夫、そいして二人の間に生まれたおチビさん「サマ」ちゃんの、戦時下での生活を撮ったドキュメンタリーでした。
編集作業での構成はあるのでしょうが、何の脚本も打ち合わせもない映像でした。映像にこめられた、わざとらしい「意図」は何も感じません。
ただ、「意志」があるだけでした。
この町を自分たちの生活の町だと残る人がいる限り、たとえ命懸けであったとしても、
「残る」と決めた医師とジャーナリストの「意志」。
二人の間に生まれてきた幼い子供も、その場で共に生きると決めた母親であり父親である「意志」。
医師である、その男は医師であることの極限に挑むかのように働きます。ジャーナリストであるその女は、あらゆる悲惨の現場、虐殺というべき仕打ちの真相を撮り続けています。おそらく一人で扱うことのできる、小さなカメラを扱っているに違いありません。
カメラがとらえている現実は、小さな子供の「死」であり、血が流れる床であり、爆撃の衝撃であり、崩れ落ちる瓦礫であり、徹底的に破壊された廃墟の街でした。
しかし、同じカメラがサマちゃんのあどけない笑顔を、夕焼けと共に暮れていく空を、仮死の赤ん坊の奇跡のような蘇生を、弟の手術を血相を変えて覗き込む少年の顔を映し出します。
カメラ操作はシンプルで、映像と撮っている人の意志が直結しているように見えます。
ここまで、繰り返し「意志」という言葉を使ってきました。この映画の画面が「ぼく」に示した「意志」とは何か。彼らをこの地にとどまらせ、幼いわが子までも命の危機にさらすことの不安に耐え、空爆下での人間の悲しみと笑顔を撮り、廃墟や死体を撮り続けることを支え続けた「意志」とは何か。
それは、「逃げない」という、おそらく
人間であることを希求する祈り!
のようなものだと思いました。
「ふつうの人間」が「ふつうに生きること」が奪われている世界に立った人間に、「人間」であり続ける以外に選択肢はあるのでしょうか。
たとえば、わが子を安全なところにおいて、自分が「正義」を行うというということに対する、かすかな「うたがい」や「ためらい」、それを感じていることを、あまりに苛酷な映像が語っているとぼくは感じました。
「人間であること」の極致に自分を置くことで、はじめて作り出されたのがこの映像ではなかったでしょうか。
どうして、逃げださないのか?
人間であるためには、逃げだすわけにはいかないということを、カメラが語っている映画でした。
映画の後味が「明るい」のは、彼らが無事生き延びたという事実以上に、彼らがそのように「生きている」ことに、未来を感じたからだと思いました。
それにしても、気の休まる暇のない、シネ・リーブル「復活の日」でした。
監督 ワアド・アルカティーブWaad Al-Kateab エドワード・ワッツ Edward Watts
製作 ワアド・アルカティーブ
撮影 ワアド・アルカティーブ
キャスト
ワアド・アルカティーブ(本人)
サマ・アルカティーブ(娘)
ハムザ・アルカティーブ(夫・医者・サマの父)
2019年・100分・G・イギリス・シリア合作
原題「For Sama」
2020・06・02シネ・リーブル神戸no54
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