クリストファー・ノーラン「インセプション」109シネマズ大阪エキスポシティ
映画.com
1990年代に登場し、今も活躍していて、40代以上の映画ファンであるなら常識的な映画や俳優、映画監督を知りません。先週観たジョニー・デップもそうですが、監督なら、この人、クリストファー・ノーランなんていう人もそうでしょうね。
この監督の作品は、2020年の7月に大阪万博の跡地にある109シネマズという映画館でIMAX映画「ダンケルク」を、初めて見てはまりました。今日は二度目のIMAX体験で、「インセプション」という10年前の映画と出合ってきました。
万博記念公園の映画館は、やはり遠いですが、この監督のIMAX映画は、やっていたら、とりあえず出かけてみようという気分で出かけました。
大迫力の画面に対して、下方に座ると画面に覆いかぶさってこられそうなので、一番後方、ですから、当然、上方の席で見ました。
渡辺謙が扮する、老いたサイト―とレオナルド・デカプリオのコブという名の男が出会うシーンから始まりました。サイト―のセリフが日本語だったことに「オヤ?」と思いましたが、そこから140分、前半は眠くて困りました。
まあ、夢の話なので、眠くなっても仕方がないと思うのですが、もう一つの理由は「入れ子」式につくられた「夢」の設定の中で、登場人物たちがお互いに役割を語る会話ついていけなかったからだったと思います。
率直に言えば、スクリーンにいる人たちが何をどうしたいのかが腑に落ちてこないので、かなりな迫力で迫ってくる音響や映像にも取り残されたままで、夢見心地だった印象です。
とはいえ、何となく、「ああそういうことか。」という感じはやって来て眠気は去って行きました。
中盤から、ロバート・フィッシャーをターゲットにした展開が一元化して、最後の「オチ」も、なるほどそうですかと納得したところで終わりました。
わかりにくい設定を一気に「わからせる」かのような、映画そのものの伏線の回収は見事だと思いましたが、登場人物たちの「夢」に潜む、たとえばフィシャーにしろコブにしろ、個々に割り当てられた物語は、案外、古典的な印象で、「ダンケルク」のナショナリズムの描き方と似たところがあると思いました。
結果的に、映画が語る多層化している「夢」の構造は、そこそこ理解できたと思いますが、
誰の夢なのか?
という、いわば「夢」の主体が曖昧だったのではないかという疑問は解けないままでした。
個々の意識の所産であるはずの「夢」を連繋するという発想は、「時代意識」というような言葉で歴史を語る発想に似ているところにとても興味を惹かれましたが、いずれにしても主体のゆくへの問題は残るということでしょうか。
とはいえ、この映画で最も印象に残ったのは「夢」そのものの生成や崩壊の過程の映像でした。IMAXの効果も抜群だと思いました。たとえば、上に貼ったポスターの都市の生成シーンは感動的でしたね。まあ、ぼくの夢では一度も見たことのない夢のようなシーンでした。
ということで、次は「インターステラー」を観ることになりそうですね。
監督 クリストファー・ノーラン
製作 エマ・トーマス クリストファー・ノーラン
製作総指揮 クリス・ブリガム トーマス・タル
共同製作 ジョーダン・ゴールドバーグ
脚本 クリストファー・ノーラン
撮影 ウォーリー・フィスター
美術 ガイ・ヘンドリックス・ディアス
衣装 ジェフリー・カーランド
編集 リー・スミス
音楽 ハンス・ジマー
特殊効果監修 クリス・コーボールド
視覚効果監修 ポール・フランクリン
キャスト
レオナルド・ディカプリオ(コブ)
渡辺謙(サイトー)
ジョセフ・ゴードン=レビット(アーサー)
マリオン・コティヤール(モル)
エレン・ペイジ(アリアドネ)
トム・ハーディ(イームス)
キリアン・マーフィ(ロバート・フィッシャー)
トム・ベレンジャー(ブラウニング)
マイケル・ケイン(マイルズ)
ディリープ・ラオ(ユスフ)
ルーカス・ハース(ナッシュ)
2010年・148分・アメリカ 原題「Inception」
2020・09・02・109シネマズ大阪エキスポシティno2
追記2020・09・05
大阪の「猫軍団」が東京の某球団(名前を書くのも腹立たしい)に、やっとのことで勝ち逃げた夜、まあ昨晩のことですが、見ていたテレビで番組欄をいじっていたチッチキ夫人が「インセプション」をやっているのを見つけました。
「これちゃうの。このあいだ観てきたやつ。」
「ああ、ほんまや、このシーンは半分くらい済んでるな。」
「観る?」
「ふーん、ちょっと点けといて、もう一度見たいシーンがあるねん。もうすんでんのかな。」
しばらく一緒に見ていましたが、チッチキ夫人が言いました。
「わたし、アカンやつやわ。こういうの。」
「メンドくさい?あっレオナルドやって。」
「ああ、デカプリオのファーストネームね。」
彼女は立ち上がって、向こうに行ってお茶碗を洗い始めました。ぼくはゴロゴロしながら見続けましたが、期待した夢の設計のシーンは、もう終わっていたようです。
テレビ画面とIMAX画面は、確かに違いますね。まあ、当たり前ですが。二度目ということもありますが、IMAX画面は、ようするに、その場での解釈を待ってくれなかったという気がしました。映像で起こっていることが畳みかけてくる印象でしたが、テレビはのんびり進行しています。
例えば、突如現れた雪山のシーンも、要するにそのように設計されていただけなんですよね。そう思うと、最後にコマが回っていますが、デカプリオ自身がその場で回したわけですから、夢ととっても現実ととっても、観ている人にお任せで、解釈は自由なわけです。
途中で、夢を見せている老人が「現実は夢の中にある」といいますが、映画の終わりにその伏線を回収したということなのでしょか。
まあ、ぼくは「夢」の方が面白いと思いますが。
というわけで、結局最後まで見直してしまいましたが、だからと言って良く分かったわけではないところが、この映画のいいところなのでしょうね。
それにしても大阪まで行って観てきた映画を、次の日にゴロゴロしながらテレビで見るというのは、なんかちょっと「不条理」を感じましたね。
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