村上春樹「猫を棄てる」(文藝春秋社)
久しぶりに村上春樹を読みました。「猫を棄てる」(文藝春秋社)です。
あの村上春樹が父親のことを語っていて、ベストセラーになっているようです。今年の4月の下旬に出て、手元にある新刊本は、7月で6刷ですからね。101ページの小冊子です。2時間で読めました。
読みながら、今なぜ「父親」のことを書いて、それを、おそらく、世界中に何万人もいるであろう彼の読者に読ませようとするのだろうということが引っ掛かっていました。読み終わっても謎は解けませんでした。
このエッセイの中にこんな一節がありました。
僕は今でも、この今に至っても、自分がずっと父を落胆させてきた、その期待を裏切ってきた、という気持ちを ― あるいはその残滓のようなものを ― 抱き続けている。ある程度の年齢を超えてからは「まあ、人にはそれぞれに持ち味というものがあるから」と開き直れるようになったけれど、十代の僕にとってそれは、どうみてもあまり心地よい環境とは言えなかった。そこには漠然とした後ろめたさのようなものが付きまとっていた。
ぼくは、ここで村上春樹が語っている「後ろめたさ」は、少なくとも、ぼくたちの世代、彼のデビュー作と二十代の初めに出会い、彼より少し年下の、かつての少年たちの多くに共有されていたような気がします。
少なくとも、ぼく自身は、ここを読んで、20代のぼく自身が村上春樹の小説に引き込まれた理由の一つがあるように感じました。
ぼくたちの父親たちは、村上の父親と同じように戦争を知っている人たちであり、子供たちに「学校」や「仕事」に対する、まじめな「努力」を期待していたように思います。そして、ぼくたちの多くは、戦争から帰ってきて、まじめに教員とか国鉄とかに勤めながら、子どもたちにそういう希代をする、その期待を、なんだかめんどくさいと思い、期待通りにできなかったのではないでしょうか。
それは、いつの時代でも父と子の間にある出来事と少し違ったのではないかというのが、この年になって感じることですが、村上はその「少し違った」ということを語ろうとしているように感じました。
そこがこの本に対する共感なのですが、だからどうだというのか、と考えてしまうとよくわからなくなります。
題名に「猫」が出てきますが、このエッセイの中で「猫」の話は二つ出てきます。父と棄てに行ったにもかかわらず帰ってきた「猫」の話と、もう一つは、少年時代、自宅の庭の松の木に登って行って消えてしまった「猫」の話です。
こういう挿話、特に消えてしまった猫なんていう話は、実に村上春樹的ですね。しかし、この挿話が何を語ろうとしているのかは謎でした。
どうも、彼は「この今に至って」、自分のなかの「時」を語ろうとしているようです。
自分の肉親や家族を話題にして、自分の中の何かを語るほど村上春樹らしくないことはなかなかないと思うのですが、本を手に取って感じた最初の疑問が「猫」と一緒に潜み続けているのはそのあたりでしょうか。結局、「猫」は見つからないまま読み終えましたが、妙に気にかかりますね。
しようがないので、新しい短編集「一人称単数」(文藝春秋社)を読むことになってしまいそうです。
追記2022・08・11
本は手元にあるのですが、「一人称単数」はほったらかしです。何となく村上春樹なんて読む気がしない日々が続いています。で、先日、芦屋に行く用があって思い出しました。思い出したのは芦屋川沿いに芦屋浜まで、少年だった春樹君が猫を捨てに入った話です。
思い出につられて、阪急芦屋川あたりから、歩いて芦屋川の河口まで行ったのですが、芦屋浜なんていう浜辺はありませんでした。芦屋の海辺が埋め立てられて高層の未来都市ふうで不思議な住宅群が建てられたのが40年ほど前ですが、その沖合がさらに埋め立てられていて、記憶の風景とは全く違う眺めを、かつての芦屋川の河口から眺めました。村上春樹は、子どものころ猫を置き去りにしようとした浜辺なんて、今では、もう、影も形もないことは知っているのでしょうか。
いや、実に、空振りというか、記憶違いかなというか、不思議な体験でした。
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