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カテゴリ:週刊マンガ便「コミック」
いがらしみきお「誰でもないところからの眺め」(太田出版)
「ぼのぼの」のマンガ家いがらしみきおが、2014年ころに「at-プラス」(太田出版)という、ちょっと硬派の雑誌に連載していたマンガの完成形がこの単行本です。 経緯は本書のあとがきに少し書かれていますが、いがらしみきおに目をつけたのは誰なのか、ちょっと興味があります。 東北大震災の後、様々なジャンルで、亡くなった加藤典洋のことばですが、「災後」の表現がなされてきました。 よく知られたところでは川上弘美の「神様2011」とか、若い映画監督濱口竜介が撮った映画「寝ても覚めても」とかが浮かんでくるのですが、このマンガは格別でした。 子供向け(?)のマンガだった「ぼのぼの」にも沿いいう所があるのですが、日常の奥に隠れている、存在そのものの「不安」を掻き立てる力が、半端ではありません。 第1章「まだ揺れている」は2014年の宮城県の海岸のシーンから始まります。海に小さな火柱のようなもの燃え上がっているシーンです。手前に描き加えられている海岸からは、初老の女性がこの光景を見ています。 なんといっても「まだ揺れている」という言葉が、東北の震災の「余震」をイメージさせますが、マンガは明らかに、震災後、すなはち「災後の世界」の始まりと、行き着く先を描いています。 いがらしみきおがこのマンガで描く「災後」は意識の中にやって来ます。合言葉は「まだ揺れている」でした。「災後」が、意識にやって来た人は「まだ揺れている」ことを、確かな現実として、身体で感じ始めます。 表紙の写真ではオレンジ色の火柱のようにみえますが、これが一体なになのか、マンガを読み終えてもわかりません。第1章では海原から燃え上がっていたのですが、最終章では、この火柱が「空」に広がっているところが描かれて、マンガは終わります。 第1章から、第2章「夢に出てくる景色」、第3章「すごく小さく、すごく速く」、第4章「言葉なんかいらない」までが「at-プラス」に掲載されたようですが、第5章「いつまでこんなことやってるつもりだ」、第6章「どこへ行くの?」、第7章「やめろ」、第8章「言葉は浮かぶんだけどしゃべれない」、第9章「誰でもないところからの眺め」は、単行本化のための書下ろしのようです。 第5章にこんなシーンがあります。 所謂、「まだらボケ」で「要介護」の老人が、素っ裸のまま座っていて、パンツをはかせてくれている息子の良介とこんな会話を交わしています。 老人「いつまでこんなことやってるつもりだ。」 ここに登場して「ボクも逃げたい」と語る少年は、薬に溺れて、ヤクザに体を与えている母親と暮らす部屋に帰ることができない境遇です。 マンガはこの章まで、高齢者や認知症の老人や、この少年のような「社会」からはみ出している人たち、追い出された人たちが「まだ揺れている」ことを感じ始めていますが、「普通」の「社会人」たちはテレビが映し出す「震度」の数字を見て高をくくり続けています。 そして、「なぜこんなところにいる?」という、この「認知症」の老人の問いかけが、このマンガの、いわばターニング・ポイントでした。 ここからマンガは「破滅」と「救い」という、本来、宗教的なテーマに向かって突き進むのですが、地面が揺れることが人間の存在そのものを、根底から揺さぶり始める描写は、読んでいるぼくを、どこか息苦しい不安に落とし込んでゆきます。 様々な老人たちが病室のベッドから抜け出したり、民家の屋根を歩いたり、ベランダから飛び降りたり、次から次へと「こんなところ」から逃げ出し始めます。「どこに逃げ出そう」としているのかはわかりませんが、「こんなこと」をしている「こんなところ」から逃げ出していく老人の姿が、妙にリアルです。 最後に空に浮かぶ、島状の火柱を描くことでいがらしみきおが何を描こうとしているのか、解釈と評価は分かれるかもしれません。 ぼくは何ともいえぬ「不安」と一緒に、「いつまでもこんなことをやっている」世界からは、逃げ出していくほかはないと感じる老人の一人であることは確かだと感じたのでした。 にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.12.13 22:12:22
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