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「100days100bookcovers no35」(35日目)
安田登『異界を旅する能―ワキという存在』 ちくま文庫 SODEOKAさんおすすめの吉田秋生の『BANANA FISH』のあとを、KOBAYASIさんはどんな本を選ぶのでしょうか。『BANANA FISH』のネタ元はサリンジャーの『バナナフィッシュにうってつけの日』とのこと。それなら、次の舞台はアメリカか、帰還兵のトラウマというテーマも?とぼんやり思っていました。だからKOBAYASIさんが『キッチン』を選ばれたのを見て 「んっ?なんで?」 と思ってしまいまいた。「バナナ」とか「芭蕉」とか、全然思いつかず。このところ頭が固くなってきているなあと、また思った次第です。ハハハ。 吉本ばななの『キッチン』とはなんと懐かしい。筆者はわたしより5歳下で、たぶん同じ時代の空気を吸って生きてると思う気安さで気楽に読み、読んだ後は心が澄むような気持になった気がしてけっこう好きでした。でもそのあとはさっぱり読んでいないし、映画も全く見ていません。内容も忘れていました。今回久し振りに読むことができてよかったです。ちょっと若返った気分。 実は今回の選書は最初から千々に迷っています。4日ほどあれやこれや悩んでしまい大変遅くなってすみません。まず、『キッチン』つながりで、二冊の本を思いつきました。どちらも私には思い出深い本です。でも一冊はナチスがらみなので、この話題は最近やったばかりなので繰り返しになってしまいますね。もう一冊は、下町の江戸っ子の生活や食べ物の話題で風情があり、いつかまた。 吉本ばななの『TUGUMI』が連載されていた懐かしの雑誌『マリ・クレール』の話もしたいし。2年分のバックナンバーを引っ越しを繰り返すうちに処分してしまったことが悔やんでも悔やみきれない。 文芸誌『海』から『マリ・クレール』に移籍してファッションだけでなく海外文芸を紹介する稀有な女性誌に変身させた異色の編集者、安原顕のことを書いている本を今回見つけたので、候補にしておきます。 でも、もう一度、KOBAYASIさんの『ムーンライト・シャドウ』の紹介文を読んでいてどうしても気になったのが、 「橋」のそばに「亡くなった人」が現れるイメージです。 「橋」は彼岸と此岸をつなぐものですが、このイメージは「お能」じゃないかと思ったのです。能では、舞台の正面左手にある廊下を「橋掛かり」といい、主人公の亡霊はこの「橋掛かり」から舞台に出てきます。源平の戦いで無残に散っていった若武者や、実らなかった恋に苦しみ死んでしまった恋人たちが、成仏できずに現れて、無念や執心を述べ、舞うことで思いを晴らそうとする作品がたくさんあります。ちょうどお盆なので、お能の話にします。 でも、本を紹介する前にもう少ししんぼうしてくださいね。『ムーンライト・シャドウ』と能の『井筒』にいくつかの似たところがあって気になったので、触れさせてくださいね。 世阿弥の『井筒』は、『伊勢物語』を題材にして、恋人への恋慕を主題とした複式夢幻能です。簡単に内容紹介します。 諸国一見の僧が、旅の途中に立ち寄った業平ゆかりの在原寺で、塚に水をかけて回向をしている里の女を見て声をかけると、「業平夫婦が昔ここにいたらしいので、業平を弔っている。」と答え、なおも尋ねると、女は業平について話しはじめ、いつしか、実は自分は業平の妻の「紀有常女(むすめ)」であり「井筒の女」の霊だと明かして姿を消します。 その晩、僧の夢に、業平の妻の幽霊が現れ、その幽霊は業平の形見の冠直衣を身に着けて業平への恋慕を語り、舞いながら井戸で自分の姿を水鏡に映し見ます。そこに映るのは、業平その人です。その舞い方も柔らかい女であったが、業平が憑依したかのような強い舞い方になるときもある。ここは見た目は男で意識は女。一人の女の身体に恋しい男の身体を取り込んだイメージです。(『ムーンライト・シャドウ』の「柊がゆみこの形見のセーラー服を着て登校している」ところを思い出します)そして世が明け僧の夢が覚めるというお話です。 最初に『ムーンライト・シャドウ』を読んだときは、生き残った者の苦しみと再生の話だなと思っていたのですが、「能」を重ねてみると、成仏しきれない死者の思いとそれを受け容れようとする生者の姿も表現されていたのだなと感じました。 「さつき」が「等」に「あの幼い私の面影だけが、いつもあなたのそばにいることを、切に祈る。」と語るところに。 今回の本は、松岡正剛や内田樹とも交際があって、最近は講演などでも名前を見かけるワキ方能楽師です。 『異界を旅する能―ワキという存在』安田登著 ちくま文庫 をあげたいと思います。 能には「シテ」と「ワキ」があります。そして「シテ方」の家と、「ワキ方」の家が決まっていて、「シテ方」の家に属する者は一生「シテ」側の役しかしません。また、「ワキ方」の家に属する者も「ワキ」側の役しかしません。 「シテ」が主人公です。亡霊や異界からやってくる者を演じ、舞い、跳ね、縦横無尽に活躍します。面(おもて)も能装束も見どころがあります。 一方、「ワキ」は面(おもて)はつけない。装束は地味。目立った活躍はしない。「シテ」と話はするけれど、「シテ」の語りを引きだしてしまうと、舞台のわきの方で木偶(でく)のようにひたすら座っているだけになってしまいます。 「ワキ」は諸国一見の僧とか、天皇や権力者の使いのものと役もだいたい決まっています。他の演劇で考えれば、「シテ」役を一生できない「ワキ方」の者は面白みがないように思えます。 しかし、安田登は、ワキの必然性やその特徴や魅力をこの『異界を旅する能』の中にわかりやすく書いています。 ――彼(ワキ)は無力ということをよく知っている。聴くことしかできないということを、身に沁みて知っている。 ワキとは、シテが本心を語るに足る相手、ともに苦しむことのできる「無力」の「力」を持っていると、黙っていても、感じさせる力量が必要な役だというのですね。 自分を深く無力だと思いなしたものこそが、どうしても晴らしようもない恨みや悲しみを抱えた魂の語りを聴いてその痛苦を「晴らす」あるいは「祓う」ことができると書いています。まるで、心療内科のカウンセラーのようですね。 かつての私は死後のことは考えないようにしていましたが、最近は、突然思いもかけぬ災難で命を失ったり、まだ死に切れない思いでこの世から去っていってしまった人の魂が、語るにふさわしい者に出会いその無念を晴らすことができるという観念を形象化している芸能が生き残っていることをありがたいと感じています。 遅くなり申し訳ありません。毎日暑いですが、SIMAKUMAさんはお元気そうで何よりです。またあとよそりくお願いいたします。(E・DEGUTI・2020・08・14) 追記2024・02・02 ボタン押してね! ボタン押してね! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.02.14 13:15:55
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