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カテゴリ:読書案内 戯曲 シナリオ 劇作家
「100days100bookcovers no39」(39日目)
別役実「けものづくし 真説・動物学体系」(平凡社ライブラリー) 今回も遅くなって申し訳ないです。SODEOKAさんが前回紹介してくれたのは津原泰水の『蘆屋家の崩壊』だったが、この作家自身も名前しか知らないし、書名の元ネタのアラン・ポーもまともに読んでいないので、とりあえず今回もシンプルに考えることにする。 短編集『蘆屋家の崩壊』は、全編 「動物」のモチーフ が出てくるということで、 「動物」 でいくことにする。 ただ「全編、動物」というところまで考えると、そういくつも思いつくわけではない。 ということで、今回は、 別役実 『けものづくし 真説・動物学体系』 平凡社/平凡社ライブラリー を取り上げる。今年3月に亡くなった著者への追悼もかねて。 全部で239ページ(平凡社版)だったので、全編、再読してみた。 この劇作家の、この「づくし」シリーズは、結構好きで何冊か読んだ。「づくし」が付いていなくても「人体」や「病気」等の類似本も含めれば著作はかなりになるはずだ。 著者が「あとがき」でも書いているようにこの本は、シリーズの1冊目『虫づくし』(鳥書房/ハヤカワ文庫NF)に続く第2弾。 本棚にある『虫づくし』を確認したら鳥書房版だった。どこで出会ったかは例によって忘却の彼方だが、『虫づくし』が気に入ったには間違いない。 しかし『けものづくし』の「あとがき」でも触れられているように、『虫づくし』は「売れなかった」のだが、その理由として 「内容がやや前衛的にすぎるきらいはあった」 と説明されている。この「前衛性」こそがこのシリーズ(類似本含む)の特徴と言っていい。 そして「前衛性」とは端的に、これも「あとがき」で言及されているが 「デタラメ」 のことである。むろん、ただの「デタラメ」がおもしろいはずもない。「知的」に「体系的」に、そしてブラックに、さらにアイロニカルに 「デタラメ」 だからおもしろい。要は、「フィクション」として読めばいいということだ。 ただ、出版が1982年ということもあり、読み方によっては、現代的な「ポリティカル・コレクトネス」に抵触する部分もありそうな気がする。個人的には、よく読めばさして問題はないと思うし、まして 「前衛的」 であることが前提になってい本であるわけだし。 動物1種類について10ページ前後が費やされ、「いるか」から「動物園」まで全部で26項目で構成される。最後の「動物園」を除けば、すべて具体的な動物がテーマになる。 中には「猿人」や「ユニコーン」、「きりん」(「例の首の長い変種」ではない方)、「ぬえ」などという一般に 「架空」 と考えられている動物も取り上げられている。むろんここでは「架空」であろうはずもない(ただ「エジプトの古い墓所に生息し死者もしくはそのたましいを常食としている」「アメンシット」については、「実在」を前提としながら、いくぶんそうでない可能性も残した表記になっている)。 たとえば「ユニコーン」は、ユニコーンの姿が、馬と雄鹿、象と猪のパーツからできていると「古い文献」に説明されているとした後、 「ここには明らかにイメージの混乱がある。ユニコーンの角は回春剤として特に修道院などでひそかに珍重されたそうであるから、もしかしたらこれは、人々からその実像をおおい隠すための『目くらまし』としての情報だったかもしれない。ありそうなことである。しかも彼らは、ユニコーンを動物学者たちの目に晒し、それに科学のメスをふるわすのを避けようとするあまり、つい近年まで、それらが実在の動物ではなく、伝説上の動物に過ぎない、とすら主張してきたのである。文献的には、紀元前数千年の昔からその存在が知られていながら、その実在が確かめられたのが、今世紀に入って1千九百三十七年だったという事実からも、彼等の陰謀のあくどさが知れようとというものである。」 と述べる。 「ぬえ」はどうだろうか。 「ぬえ」が哺乳類であるか、爬虫類であるかについては議論があるし、一部には鳥類だとか両生類だとする説もないわけではないが、魚類だとする説や昆虫だする考えは支持されていないが、完全に否定されたわけではないとした後、「それにもかかわらず」と言うべきか、 「さすがに今日ではどんな素人でも、ぬえが『伝説上の動物である』とか、『架空の動物である』などの暴論を吐くことこそなくなったが、それでもまだ一部の地方には、ぬえが『動物ではなく植物である』ということを固く信じているところがある」 とする。 さらに、ぬえの「鳴き声」や翼、手、あるいは足に付いた水かきについて述べられた後、最後に 「我々の知っているぬえにおける最も特徴的なことは、彼がその体に或る穴を持っている、ということである」 と言う。 その穴は我々人間も持っている生理的機能を果たす穴以外の役割を持っているようなのだが、その役割については今のところ判明していない。が、 「もしかしたらぬえはそ穴によって、虚無を呼吸しているのではないか」 という説があり、 「微生物をはじめとするあらゆる生物が、その生命維持の過程で、『虚無』を呼吸する器官を養いつつあるというのが、生物学者たちの新しい主張なのである。つまり『虚無』がその生命現象を鼓舞するという作用を、重要視しはじめたのであり、ぬえにそのモデルを見ようというわけである。」さらに 「もしかしたらその穴こそが、ぬえそのものではないか」「つまり。我々の言っているぬえは、単にぬえを取り巻いているものに過ぎないのであり、本来のぬえは、我々の言っているぬえによって、取りまかれているもののことでないか」 という考え方に言及する。そして、 「取り囲む実体がなくとも、穴が穴であることには変わりない」(この部分に関しては個人的には納得しかねるけれど) という考え方が多方面の支持を得つつあるとし、この考え方によれば 「つまりぬえというのは、それを取り囲む実体のない穴そのものなのである。それを取り囲む実体はないのであるから、それをそれとして確かめることは出来ないが、しかし、やっぱりぬえはぬえなのである」 という、結局、現状の我々の認識、つまり、ぬえの「非存在」に近い結論になっているのは 「なんじゃらほい」 とは思いつつ、しかしおもしろいのは否定できない。いや、おもしろい。 「らくだ」の項に引用される、「月の砂漠」の歌詞で、「月の砂漠」が、「月夜の砂漠」か「月面上の砂漠」か、とか「銀のかめ」「金のかめ」の「かめ」が「亀」なのか「甕」(「瓶」)なのか、とかも、 あほらしくて笑える。 ここでは同様の例として「猫」の項を紹介しておく。 「猫」が「化ける」のは、狐や狸と異なり(狐や狸が「化ける」のは実験段階で実証されておらず、かつ動物学者に言わせると 「どことなく大衆に媚びているようなところがある」 ということもあり、著者は「俗説」とする、 「それなりの必然性と、どうしようもなくそうせざるを得ないような。突きつめた純粋性」があり、それは「トロント大学のジョン・スミス博士」が、どのように飼猫「ジュスティーヌ」を「化ける」に至らしめたに表れている。 「尻尾ををつかむ」という慣用句は、何物かが「化ける」場合に尻尾だけは埒外に置かれることを暗に示しているのではないかと考えた博士は、まだ一度も化けたことのなかった飼猫ジュスティーヌが「化ける」ときのために、新案特許「尻尾固定機」を作成した。 ジュスティーヌの尻尾を固定してみると、最初ははずそうとしていたが、やがて気にしなくなった。そこにアンナ夫人が実験室の扉を開いて現れ、朝食のチーズについて博士を口汚くののしった。口論が始まり、最高潮に達したとき夫人は戸口から出ていった。 そのときジュスティーヌは化けた。アンナ夫人が出ていったにも拘らず、そこにアンナ夫人が立っていた。それも、 「今の今までそうであったような全身の怒りと憎しみを奇跡のようにふるい落として、むしろ悄然と、やや淋しげにそこにたたずんでいた。」 そして博士の「あなたは、どなたですか」という問いに「アンナ・スミス夫人です」と夫人に化けたジュスティーヌは答えるのだった。そのとき、 「灰色のフレヤースカートの間から、まるで小さな罪悪にように出た尻尾が、そのまま固定機につながっていた。」 ほかにも「にわとり」の項の 「果たして人類に、にわとりの卵を食べる権利があるのか」 や「虎」の項の 「『人食い虎』はなぜ人を喰うのか」等、相当におもしろいが、これ以上記事を長くしても仕方ない。 というふうに大概は 「デタラメ」ではあるのだが、冒頭の「いるか」の最初の部分に登場する、SF作家ラリイ・ニーブンの「既知空域(ノウンスペース)年表」は、作家の名前も、「既知空間」という言葉も、「事実」ではある(私は作家の著作は未読だが)。さらに「いるか」というネーミングについては「古事記」の「因幡の白兎」の箇所を借用している。 だから、読み進めていくうちに、何度か「ファクトチェック」みたいなことをやることになった。結構「事実」も含まれている。「動物園」の項に出てくる、ドゥーガル・ディクソンとその著書『アフターマン』も、何だか作ったような名前だなと思って調べたら、実在の人物であり著書だった。 しかし、「猫」の項に登場するジョン・スミス博士とそのの著書『ジュスティーヌは変幻自在』は、ネットで検索してまったくそれらしいものがヒットしなかった。たぶん実在していないのだろう。 このあたりのさじ加減はさすがに別役実である。まぁ読んでいるうちに、真偽の区別はいくらかつくようにはなったけれど。 再読して改めて思ったのは、著者が、当然のようにかつ一方的に人間の立場に立つのではなく、動物の側にも立って物事ないし人間を考えようとしているということ。ときに動物心理を推測し、ときに擬人化しながら、結局、人間のことを語っている。諧謔と皮肉と辛辣さを込めて。そういうことなのだ。 だから、著者にとってみればこの手の著作も、戯曲や小説、童話等とさして変わらなかったのかもしれない。 最後に。玉川秀彦のイラストも、おもしろくて効果的。 ではDEGUTIさん、次回、お願いします。(T・KOBAYASI2020・09・10) 追記2024・02・16 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.02.22 11:27:52
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