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カテゴリ:映画 日本の監督 タ行・ナ行・ハ行 鄭
野村芳太郎「砂の器」こたつシネマ
2021年が始まって10日以上たちましたが、徘徊老人のシマクマ君、まだ公共交通機関にさえ乗っていません。愛車のスーパカブで近所の図書館に一度出かけましたが、その日もあまりの寒さにホウホウのていで帰宅しました。 ベランダのバケツに貼った氷をウレシガッテ写真に撮っているような毎日で、ただ、ただ、運動不足と着ぶくれでぶくぶく太っているような次第です。もちろん映画館など遥か彼方というわけです。 で、新春第1本目の、記念すべき、今年の 「映画はじめ」 をこたつにもぐりこんでいると、テレビで偶然始まった「砂の器」で済ませてしまいました。なんという事でしょう。 1974年の映画ですね。大学1年生のときに名画座で見ました。ザンネンながら、世間が騒ぐほどいいとは思わなかったと記憶しています。なんだか、気持ちを掻き立てる一方の音楽の使い方が、まず、気に入らなかったと思います。 それと、推理小説としては、事件の手がかりの「布吹雪」の設定が、なんだかなあと思った記憶があります。 まあ、暗い酒場で緒形拳が加藤剛に迫っていたシーンがあったなあとか、渥美清がいた伊勢の映画館「ひかり座」で緒形拳が見たのは、写真ではなくて「宿命」のポスターだったよな、とか思っていましたが記憶違いでした。その程度の記憶です。 で、どうだったのか。 感心しました。 放浪する少年と父親の間には「セリフ」がないんですね。 ただ、ただ風景と、風景の中の「父と子」がいるだけなのです。加藤嘉のセリフは最後に泣くところだけですし、子役の少年に至っては一言もしゃべりません。風景の中をただ歩き続ける「父と子」が一言もしゃべらなくても成り立つように脚本化されているところにうなりました。 ちょうど、橋本治の「熱血シュークリーム」(毎日新聞社・再刊)を読んでいた偶然も重なり、この映画の主人公の、いわば、 永遠の「少年」としての設定 に、あの「あしたのジョー」と、全く同時代につくられたこの作品の面白さに気付きました。ああ、「熱血シュークリーム」は、まあ、言ってしまえば「あしたのジョー論」でもあるわけですが、1970年代の「少年マンガ論」で、「少年」という概念(?)がメインテーマなわけです。 大雑把で申し訳ないのですが、橋本治によれば「時間」、つまり過去にも未来にも拘泥することなく、「男の子なんだから」前へ前へ進むことで「現在」を生き、「大人」になる前に「白く燃えつきる」ものとして、「少年」というものがあると、まあ、ぼくはそう読んだのですが、そう考えれば過去を抹消し、「音楽」という「夢」に生きようとした、この映画の主人公和賀英良は、燃え尽きそこねた「あしたのジョー」だったのですね。「燃え尽きる」前に「過去」が襲い掛かり、凡庸で空虚な「大人」の姿をさらけ出してしまった男ですね。 初見の記憶では、加藤剛というキャスティングにうんざりしたことを覚えています。しかし、今回、生涯、「空虚」な善意の塊のような笑顔のこの俳優を、この役に使った野村芳太郎は、なんだかすごくエラかったことに気付きました。 ぼくの目には、この俳優の顔には、複雑な「心理」というものがないように見えるのです。いくら「過去」の父と子の旅を、演奏している、つまり、今を生きる主人公に重ねていっても、永遠に空虚な器でしかない主人公の顔からは、「やる気」以外の「心理」が読み取れません。その結果、観客はありったけのなみだを、「父と子」の物語に注ぎ込むことができるわけです。そこを演出した野村芳太郎に、ぼくは、かなり激しく 「カンドー!」しました。 今思えば、加藤剛こそがジャストミートなのです。彼を取り囲む、演技派の名優たちは、主人公が「空虚」な大人であることを際立たせ、その空虚さを観客が、勝手に埋めていくのを助けるためにそこにいるかのようでした。当然、客は心ゆくまで泣くことができるわけです。うまいもんですねえ。もちろん、ぼくも泣きましたよ。 野村芳太郎の映画は「鬼畜」の緒形拳や「事件」の大竹しのぶや渡瀬恒彦を印象深く覚えているのですが、この映画は当時としてはかなり実験的な作品だったのではないでしょうか。そういえば脚本は橋本忍ですよね。 スジを運ぶ丹波哲郎と森田健作のシーンや、加藤剛と島田陽子、山口果林との絡みのシーンにも、ある種の懐かしさは感じるのですが、何といっても、殿山泰司、花沢徳衛、笠智衆、春川ますみ、菅井きん、そして「寅さん」ではない渥美清が元気に画面にでてくると、ヤッパリ嬉しいですね。 そういえば、風景の撮り方というか、扱い方が「トラさん」映画に似てるなと思ったのも発見でした。こっちは、まあ、暗いときの「新日本紀行」みたいでしたが、山田洋次も脚本で参加しているんですね。 監督や脚本家をはじめ、画面に登場する俳優たちの多くはもうこの世に人ではありません。島田陽子さんと山口果林さんが御存命であることに驚く始末です。まあ、森田健作さんのように、どこで出てきても 「アンタはダイコンやねんから!」 と声をかけたくなる人は「別の世界」で生きているようですが、半世紀も前の映画なのですね。いやはや。 監督 野村芳太郎 原作 松本清張 脚本 橋本忍 山田洋次 撮影 川又昂 音楽監督 芥川也寸志 作曲 菅野光亮 演奏 東京交響楽団 キャスト 丹波哲郎(今西栄太郎) 森田健作(吉村弘) 加藤剛(和賀英良) 春田和秀(少年・本浦秀夫) 加藤嘉(本浦千代吉) 島田陽子(高木理恵子) 山口果林(田所佐知子) 佐分利信(田所重喜) 緒形拳(三木謙一) 松山政路(三木彰吉) 花沢徳衛(三木の同僚安本) 笠智衆(桐原小十郎) 春川ますみ(扇屋女中澄江) 渥美清(ひかり座支配人) 菅井きん(山下お妙) 殿山泰司(恵比須町住人) 1974年・143分・日本 配給:松竹 日本初公開:1974年10月19日 2021・01・11こたつシネマ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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