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週刊 読書案内 古井由吉「雛の春(「われもまた天に」所収)」(新潮社)
2月18日で、作家の古井由吉が亡くなって1年が経ちました。ぼくにとっては中年にささしかかったあたりから、発表される作品に引き付けられ続けた作家でした。 ちょうど「槿(あさがお)」から「仮往生伝試文」を経て、微妙に「文体」が変化し始めていく過程にめぐり合わせたこともあり、「小説とは何か」をいう、解ける当てのない疑問に対する「こたえ」として差し出され作品のような気分で、読み続けてきました。 小説において、今この時を生きている、ただの、例えば、老人である「私」に対して、作品中に描かれる「私」、小説を書く「私」と、三相の「私」が出現することは容易にわかってもらえると思うのですが、古井由吉の、特に、晩年の作品では、その三相に、作品中の「私」に現れる、何相もの「記憶」や「夢」が重なり合うことで、書いている「私」がいる場所がきしみ、やがて、作品が、いま生きている「私」にフィードバックしてゆく。そんな感じの中で、読み手であるぼく自身の意識も少しずつゆがみ始めながら、作中の時間と場所に引き込まれていくのです。 古井由吉の晩年の作品を読む体験は、作中に描かれている「記憶」とか「夢」とかの記述を読みながら、その記憶をたどっている登場人物の「意識」へと溯っていくという、当たり前のルートをたどるのですが、最後には書き手によって書かれている、生きている古井由吉はどこにいるのだろうという不思議な疑問にとらわれることになるのです。 彼がなくなった2020年の秋に出版された「われもまた天に」(新潮社)に収められている「雛の春」という作品の一節に、こんな「記憶」の連鎖が描かれている場面があります。 天袋の中で顔を覆われたまま煙に、やがて炎に巻かれていく雛の笑みが、青年の頃から何かのはずみに、見たはずもないのに仔細なように浮かんだところでは、あの空襲の未明に、防空壕から飛び出して、家の内は軒から白煙を吐きながらまだ静まっていたが、二階の屋根の瓦のあちこちに鬼火のような炎のゆらめくのを見あげて、火急の時にはあらぬことを思うもので、二階の天袋の中で炎上寸前の雛たちの顔へ瞬時心が行って、後の記憶の底に遺ったものか。 長くなるのでこの辺りで切りますが、この作品はここまで、2019年の二月の初旬から三月の初旬にかけての、作品の語り手、一人称の主語はありませんが、おそらく古井自身の入院や、病院での生活が書き綴られています。 引用したパラグラフは、三月の初旬、入院していた病院の一角に「雛段」が飾られていることを語り始めたところから、「語り手」の記憶が「雛」の思い出へと書き進められて、たどり着いた一節です。 この三つのパラグラフは「戦争末期の空襲で焼けた雛の顔」、「女人の能面」、「見知らぬ女との夜道でのすれ違い」と、あたかも「歌仙」の付け筋を追うように楽しんで読み進めればいいようなものなのですが、読んでいると、どうしても、展開を追いながら、病院のベッドで語っている「語り手」、退院してそれを書いている「作家」、「記憶」や「夢」を語り手である主人公と共有している「古井由吉」という三人を思い浮かべて呆然とするわけです。 しかし、この体験は、ひょっとすると至高の体験かもしれませんね。言葉で書き記された「世界」に入り込むという体験にはいろいろあるのかもしれませんが、「意識の塊」のような、ありえない「存在」を思い浮かべ、その後を追うように、語られる「ことば」を追うのですから。 本作でいえば、引用の後、語り手の記憶が「雪の夜道で女人とすれ違う」話へ進むのですが、それから、どんな方向へ進んでいくのか興味を持たれた方は本作を読んでいただくほかありませんね。 本書には、他に「われもまた天に」、「雨上がりの出立」の二作と、絶筆となった「遺稿」が収められています。感想はまた書きたいと思いますが、いつになることやらという気分です。 追記2022・03・25 いつの間にか春になってきました。今年の2月18日も、いつの間にか過ぎてしまっていますが読み返そうと思っていたはずの古井由吉を手にとり直すことはありませんでした。そういう日々を送っているということなのです。仕事があるわけでもないヒマな日常なのですから、できれば、今年こそ、一度立ち止まり、一つづつ読み直したいと思っています。日差しが明るくなって、意味もなくホッとしている3月も、もう終わりの朝です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.05.08 10:36:54
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