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カテゴリ:読書案内「立花隆・松岡正剛」
松岡正剛「擬MODOKI」(春秋社) 久しぶりに松岡正剛を読みました。「擬 MODOKI」というキイワードに向かって、20回にわたる講義が「第一綴」から「第二十綴」まで繰り広げられています。松岡正剛流「世界認識の方法」が、今のハヤリふうに言うなら、「千夜千冊」のアーカイブをたどりかえす様子で編集されています。
松岡正剛を初めて読む人は、あまりに大胆な展開に驚かれるかもしれませんが、「これが松岡正剛である」というか、「余はいかにして松岡正剛になりしか」というか、彼のミーハーなフォロワーにとっては「いつもの松岡正剛」であり、今や「千六百夜」に及んでいる「千夜千冊」シリーズの再編集といってもいい松岡正剛でした。 読み始めて、最初に出会う読みどころが第二綴、与謝蕪村の句の解釈をめぐるこんな解説でした。 第二綴 きのふの空 引用部分だけを読めば蕪村の句についての独自の解説として読めるのですが、「擬 MODOKI」一冊を読み終えれば、ここで松岡正剛が、この句の肝として言及している「蕪村は凧の舞う空の片隅に『きのふの空』という当体を『ありどころ』として掴まえたのである。」が本書の肝だと思いました。 この言葉の意味を考え続けるのが本書を読むという作業のすべてでした。凧の舞う空に「きのふの空のありどころ」があるとはどういうことなのか。それだけですね。 目の前の世界について、ぼくたちが「わかる」とか「見える」と感じるために、ある種、無意識に、意識を操作している「統一性」や「合理性」に抑え込まれながらも、紛れ込んできたり、フト、意識の中に現れたりする「ちぐはぐ」や、「あれこれ」の「ゆらぎ」の中にこそ、世界を捉える契機が潜んでいるとでもいえばいいのでしょうか。 あとがきでこんなふうに書いてあります。 この本は少し変わっている。ちぐはぐなこと、ノイジーな現象、辻褄があわない言動、公認されてこなかった仮説、残念至極な出来事、模倣や真似する癖、おぼつかない面影を追う気持ち、借りてばかりの生活などの肩をもっているからだ。 ぼくのように、若い人たちに対して「スジだった考え方」ということを、常々、口にするような仕事に何十年も従事してきた老人には、最も苦手、且つ、不可解な主張なのですが、実にスリリングだったのは何故でしょうね。 一つ言えるのは、例えばこの国の歴史的なアーカイブをたどりながら、幕末期の「孟子受容」を巡って、野口武彦さんの「王道と革命の間」(筑摩書房)を取り上げ、維新の後の西郷隆盛のふるまいや、昭和初期の動乱、保田与重郎、三島由紀夫へと思考の射程を伸ばしていく松岡正剛の語りの面白さに魅了されながら、「きのふの空」の「ありどころ」へ思いを凝らしていく読書体験は、そうそうあることではないということでした。 しかし、それにしても、本書全体が、松岡正剛本人による、自身の思想と行動の総括を意図しているとうかがえるわけで、彼の健康を祈るばかりという心持の読後感でした。 松岡正剛は面白いですよ、是非、手に取って見てください。 追記2024・09・22 この記事で話題にした野口武彦さんも松岡正剛さんも、今年の、2024年ですが、夏に亡くなりました。若いころから、歴史や文学を読む杖のようにして、それぞれの著書を読んできたお二人のご逝去は、ボクにとって、少なからずショックな出来事でしたが、時がたっていくということには抗えません。
残された読むだけ人間に出来ることは、お二人のお仕事に限らず、1冊、1冊、「読書案内」することぐらいですが、まあ、山盛りありますからねえ💦💦(笑) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.09.22 10:40:51
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