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カテゴリ:映画 フランスの監督
ロベール・ゲディギャン「海辺の家族たち」シネ・リーブル 予告編で見て、気になってやってきたシネ・リーブルです。とはいいながら、題名の印象でしょうか、さほど期待していたわけではありません。映画は「海辺の家族たち」でした。監督はロベール・ゲディギャン、フランスのケン・ローチだそうです(笑)。
始まるとすぐ、海に面したベランダでタバコを吸っていた老人が、脳出血でしょうか、脳梗塞でしょうか、倒れてしまいます。以後、この男性は一切言葉を口にできません、表情も無反応です。 実は、彼は、タバコをふかしながら一言つぶやいたのです。それが 「残念だ!」 だったのか、それとも、もっとほかの言葉だったのか。 うかつにも、ぼくが亡失してしまったこの言葉が、この作品のすべての会話の底に流れていたことにラストシーンで気づいたのですが、あとの祭りでした。 イタリアの監督ヴィスコンティの作品に「家族の肖像」という、ぼくの好きな映画があります。この言葉を英訳すると「カンヴァセーション・ピース」になるということを、小説家の保坂和志が、同名の自作の中で書いていたような気がしますが、この映画はフランスの現代版「家族の肖像」でした。 父が倒れた「La villa」、田舎の家に、女優をしている娘アンジェルが帰ってきます。実家では、父のレストランを継いだ長兄のアルマン、若い恋人を連れた次兄のジョセフが待っています。この三人の子供たちも十分に「人生」というキャリアを生きた年齢にさしかかっているようです。ここから「一族再会」の「カンヴァセーション」が始まりました。 ポイントは、登場する人物たちすべてが「脇役」ではなくて、いわば「主役」として描かれていることでした。 意識の所在が不明な父親、三人の兄妹。隣人の老夫婦とその息子。次男の恋人、アンジェルに恋する青年、難民の三人姉弟、国境警備の軍人までほぼ10人の登場人物たち。 映画に登場する、その10人ほどの人物たちの「肖像」が、タッチの違いはあるにしても、海岸を捜査する軍人に至るまで、一人一人、「人」として、その姿が記憶に残る映画でした。 誰かと誰かの会話と回想の組み合わせが、何もしゃべることも表情を変えることもできない父親の周りを巡るかのように配置されていて、家族の記憶の物語の中心にいながら意識さえ確かではない「父親」が、決して、象徴的な存在としてではなく、今ここにいる一人の人間として、生きている人間として描かれているということを感じました。これは、稀有なことではないでしょうか。 映画の始まりに、不意打ちのようにつぶやかれた、父親の「ことば」は「カンバセーション・ピース」の、大切な一つの「ピース」として、映画の終わりになって光を放ち始めました。 高速鉄道が石造りの橋を渡ってさびれた村の上を通過しています。時代から取り残された海辺の村で再会した家族の数日間の「記憶」の物語の美しさもさることながら、ラストシーンで響く子供たちの名前を呼びあう声の木霊が「時間」を超え、父親の遠い意識に届いたかに見えるシーンの感動は何といえばいいのでしょう。 「リジョイス」という、ノベール賞作家のキーワードが自然と浮かんできて、涙があふれて困りました。ぼくにとっては美しい再生の物語でしたが、やはり老人の感想なのでしょうか。 ロベール・ゲディギャンという監督の作品で常連の俳優たちの出演のようですが、回想シーンに若かりし俳優たちの姿が自然に挿入されていて、その、あまりの「はまり具合」には驚かされました。 それにしても、ときおりの回想シーンのたびに涙がこみあげてくるのは、ほんと、なぜなのでしょうね。困ったものです。 マア、数年前の作品らしいですが、今年のベスト10に入ることは間違いなさそうです。拍手! 監督 ロベール・ゲディギャン 脚本 ロベール・ゲディギャン 撮影 ピエール・ミロン 美術 ミシェル・バンデシュタイン 編集 ベルナール・サシャ キャスト アリアンヌ・アスカリッド(アンジェル末娘) ジャン=ピエール・ダルッサン(ジョゼフ次男) ジェラール・メイラン(アルマン長男) ジャック・ブーデ(マルタン隣人) アナイス・ドゥムースティエ(ヴェランジェール次男の恋人) ロバンソン・ステブナン(バンジャマン漁師の青年) ヤン・トレグエ ジュヌビエーブ・ムニシュ フレッド・ユリス ディオク・コマ 2016年・107分・G・フランス 原題「La villa」 2021・06・22-no58シネ・リーブルno97 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.05.12 22:07:47
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