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「100days100bookcovers no54」(54日目)
HARUTAKA NODERA(野寺治孝)『TOKYO BAY』 発行トレヴィル・発売リブロポート 遅くなりました。写真集が続く。 SODEOKAさんが選んだ、前回の鬼海弘雄の『ぺるそな』は文字通り「人」が被写体の、言ってみれば人を見据えた写真集だが、今回は人がほぼ登場しない写真集を紹介する。 『TOKYO BAY』HARUTAKA NODERA(野寺治孝) 発行トレヴィル 発売リブロポート 1996年 東京湾の写真が都合42枚、1枚1枚に撮影した時間帯と月が英語で記されている。調べてみたら1月から12月まですべての月が網羅されている。 時間帯もDawn(暁)からNightまで大体揃っている。中にはThe Blue Hour(日の出前あるいは日の入り後に発生する空が濃い青に染まる時間帯)、Afterglow(夕陽の残光)、Twilight Arch(明帯-日没後あるいは日の出前に現れる、かすかに輝く水平線上の帯。時間帯を表しているわけではないけれど)などというのも。 見たところ撮影場所のデータが記載されていないので、推測ではあるが、おそらく定点観測的な撮影ではないだろう。 カメラはハッセルブラッド500C/M、レンズはカールツアイス、フィルムはフジクローム、コダクローム、エクタクローム。 海は季節により時間により様々な表情を見せる。海の表情は、ほとんど海の外からの要素によってもたらされる。 空や雲、雨や雪、風や光、雷鳴、そして闇、さらに人間の営為によっても。 ぼんやり霞んでいたり、ワイン色に火照っていたり、全方位からの光を水面にたゆたわせていたり。 あるいは、グレーだったり、青緑だったり、鋼の色を思わせたり、さらに真っ青だったり真緑だったり、 真っ暗だったり、青紫だったり、本当に「水色」だったり。 同じ海がこれほど異なる様相を見せることの不思議と神秘を思う。 そしてすべてが美しい。 たとえば11月の夕闇の中、微かに青みが残る曇り空の下、水平線も重いグレーに沈むそのやや前方の水面に一艘の舟が浮かぶ光景は、そこが冥界を思わせるような寄る辺なさだ。 あるいは、わずかに残光の残る9月の海、闇を呑み込んだような濃い青の海と、水平線で区切られた、海の色を水で溶かしたような色彩の空の下方に赤い月がかかるイメージは以前観たフランシス・ピカビアの絵画を思わせる。 さらに4月、天上から降り注ぐ黄金色の光に包まれた遅い午後の光景は、ほとんどこの世とも思えない。 久方ぶりに開いた写真集だったが、写真が、カメラと光による創造性に充ちた「絵画」であることを改めて教えてくれた。 巻末には写真家による「あとがき」的な小文が添えられている。 そこに憧れの写真家ジョエル・マイヤウィッツのような海の写真を撮りたいというとことが『TOKYO BAY』の出発点だった、とある。 そして海に吹く風の中に「囁き」を聞くことがある、とも。 その「囁き」が写真を見ているうちに聞こえる気がするのだ。 その後『TOKYO BAY』の、その「あとがき」的小文で言及されていて興味を覚えて入手したジョエル・マイヤウィッツの写真集『BAY / SKY』(1993年/トレヴィル発行/リブロポート発売)についても少し。 カメラは、8X10 Deardorff view canera。 レンズは、10-inch wide-field Ektar lens。 フィルムは、Kodak Fujicolor。 カメラについてマイヤウィッツは、「あとがき」で、次のように書いている。 私の道具は、大きくてスローで視界の隅々まで蔑ろにすることなく全てを描写することができる8X10のヴュー・カメラだ。これは海岸線に残された足跡と遠くの水平線とを同じくらい明瞭に一遍に見ることができる。光の持つあらゆるニュアンスをこの器械は解析してくれる。その解像度は息を呑むほどだ。このカメラを使うと見の回りのもの全てに目覚めてしまう。 また、 遠近感というのは錯覚だ、というのはルネサンスの遠近法が近くの物の方が遠くの物よりも大きく見えるという条件付づけを我々に刷り込んできたからである。道路と街路樹と建物とが矢印状に遠ざかるに連れ、各々一緒に小さくなって退いてゆく、といった図でこのことは印象づけられてきた。ともある。 マサチューセッツ州の半島ケープコッドで撮影された47枚(見開きは2枚とカウント)。 これを見ると、レイアウトや構成その他まで、『TOKYO BAY』がこの写真集に「準拠」していることがわかる。 そして、野寺治孝の言う「囁き」が、マイヤウィッツの言う「虚空」と呼応していることも。それを私たちが何と呼ぶにせよ、やはり彼らと同じようにそれを求めていることに違いはない。 『BAY / SKY』の海と空は、そしてそこに降り注ぐ光と闇も、東京湾のそれらよりも、空間の広がりと穏やさと懐かしさを感じさせる。 それはもしかしたら、少し顔を覗かせる海岸のせいもあるのかもしれない。 山崎正和が、私たちのことを「海洋民族」ならぬ「海岸民族」と称したという文章をどこかで読んだが、我々にとって海岸から海を見やる視点はまことに「親しい」、そして安心できるもののように思う。 それでは、DEGUTIさん、次回、お願いします。(T・KOBAYASI・2020・12・09) *掲げた写真には光や影が映り込んでいくぶん見にくいものもあります。ご了承のほどを。 追記2024・03・17 追記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.03.24 19:42:38
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