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カテゴリ:読書案内「昭和の文学」
週刊 読書案内 吉村昭「海も暮れきる」(講談社文庫) 昔の職場の人や若い本好きの人たちと続けている、一緒に文学を読む集まりの課題になった吉村昭の「海も暮れきる」(講談社文庫)という小説を読みました。俳人尾崎放哉の最後の八ヵ月を描いた作品でした。
尾崎放哉といえば、一般には自由律、字数を定型でこだわらない俳句、の独特な作品で有名な人ですね。 1885年、鳥取に生まれた人で、本名は尾崎秀雄、鳥取一中、一高、東京帝大法学部を出た、当時としては超エリートですが、30代で社会的信用と地位を失い、一灯園をかわきりに、知恩院や須磨寺の寺男として生き延びますが、最後は1926年、大正15年、小豆島の草庵で結核のために41歳の生涯を閉じたそうです。 咳をしても一人 この句が、いわゆる、人口に膾炙した代表作のようで、高校の国語の教科書にも出てきます。 足のうら洗えば白くなる とか 墓のうらに廻る というのが、ぼくの好きな句ですが、 春の山のうしろから烟が出だした というのが、辞世というか、最後に残された句だったようです。 読み終えて、面白かったので同居人のチッチキ夫人にすすめました。彼女はゴロゴロしながら100ページほども読みすすんだところで、ため息まじりに言いました。 「私、もういいわ。なんなん、この人。」 彼女が読んでいたのは、主人公尾崎放哉が、すべてに行き詰まり俳句の伝手を頼りに、小豆島の草庵に転がり込んだあたりのようでした。 「まあ、そう言わんと、もうちょっと読んでみ。吉村昭いう人が何書きたいか、わかる気がし始めたら読めるんちゃウか。そしたら、案外、その、ウットオシイ、主人公に腹立てんと読める思うで。」 結局、彼女は、二日ほどで読み終えたようですが、最後は、さほど腹を立てないですんだようです。 吉村昭は「あとがき」で創作のモチベーションについて、こんなふうに書き残しています。 放哉が小豆島の土を踏み、その島で死を迎えるまでの八ヵ月間のことを書きたかったが、それは、私が喀血し、手術を受けてようやく死から脱け出ることのできた月日とほとんど合致している。 吉村昭といえば史実にこだわる「歴史小説」の作家といっていい人だと思いますが、この作品の「面白さは」は、むしろ創作された描写にあると思いました。 放哉は、目を開きシゲを見つめたが、すぐに視線をそらせた。自分には到底言えそうになかったが、厠で座りこんでいた時のことを思うと、頼みこむ以外にない、と思った。 作品の前半は社会的な人間関係に対する、不信と猜疑、わがままと傲慢の経緯が詳しく語られ、放哉の人格的破綻と句作の関係が描かれてきた作品ですが、ついに、虚勢を張って立つこともならぬ病状の窮まりにおいて、作家が「主人公」を救っている場面だと思いました。 引用したこの場面は、さほど上手な描写だとは思いません。しかし、ここで描かれているのは尾崎放哉という希代の俳人の文学的境地ではなく、「死への傾斜ににおびえる」一人の弱者に対する、人間的な救いだと思いました。ここに、吉村昭の「放哉」がいるといってもいいのではないでしょうか。 ぼくは、課題図書というきっかけでもなければ吉村昭という作家を読もうという読者ではありませんが、記憶に残る作品だと思いました。 それにしても、尾崎放哉という俳人、ホント、めんどくさい人ですね。(笑) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.07.30 00:04:53
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