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茨木のり子「倚りかからず」(ちくま文庫) 先日「案内」した谷川俊太郎の「夜のミッキー・マウス」があった棚の横に並んでいた詩集です。
茨木のり子「倚りかからず」(ちくまぶんこ) 谷川俊太郎は、茨木のり子と川崎洋が1953年に始めた「櫂」という詩の同人誌のグループの一人です。このグループには吉野弘や大岡信、岸田衿子という、今となっては名だたる詩人が集いましたが、最初は茨木のり子と川崎洋のお二人で、その次が谷川俊太郎のようです。 どなたも、高校とかの教科書でおなじみです。高校では出会わない川崎洋は小学校から、すでに、おなじみです。 「とる」 かわさきひろし 岸田衿子は、絵本ですが「ジオジオの冠」のひとです。まあ、女優の岸田今日子さんのおねえさんで、谷川俊太郎と田村隆一の「奥さん(?)」だったことのある人というのもあります。 大岡信は言う必要はないでしょうが「折々のうた」(岩波新書)ですね。吉野弘は散文詩「I was born」の人ですね。 茨木のり子の詩に「わたしが一番きれいだったとき」というのがありますが、これも教科書に出てきますが、まあ、とても有名なのは間違いありません。 わたしが一番きれいだったときもう、ずっと以前のことですが、この詩を初めて読んだ時に気づきました。「櫂」の詩人に限らず、20代で読んだ人たちって「親」の世代の人なのです。茨木のり子も、ぼくの母親と、ほぼ、同世代の人です。 ぼくは山陽本線の土山駅を電車で通るたびに母親を思い出します。田舎の女学校の生徒だった彼女は「学徒動員」で土山に来ていて、休日には、なんと新開地の「聚楽館」で映画を観たりしたそうです。 その時一番怖かった思い出は、1945年3月の神戸の空襲だったそうで、土山の宿舎で友達と抱き合って、東の空が真っ赤に焼け染まるのを見ていたそうです。 茨木のり子の詩とかに、そういう世代を感じながら読むことにどんな意味があるのかわかりませんが、そのことに気づいて以来、「自分の感受性ぐらい」とか「倚りかからず」とかに、その世代の女性の「意地」のようなものを感じてきました。 「一番きれいだったとき」の「空襲」や兄たちの「出征」・「戦死」、呆然とした「敗戦」の経験なくして、この「意地」は生まれなかったのではないでしょうか。 この詩集は2006年に亡くなった、彼女のラストメッセージだそうです。有名なのは「倚りかからず」ですが、今日はこれです。「意地」を張り通した、昭和の女の笑う力です。 笑う能力 茨木のり子 ちょっとエラそうで、申し訳ないのですが、そんなにお上手(?)な詩だとは思いません。でも、ふと笑えて、いいなあと思いました。80歳になろうかというばあさんが、結構、ガンバって意地張っておられるような気がします。 追記2021・09・08 話題に出した「倚りかからず」は茨木のり子73歳のときの詩です。彼女は50歳になるかならないかの頃夫を失い、その後、独りぼっちになったことに向かい合う生活を詩のことばに昇華したおもむきのある人だと思いますが、たどり着いた境地がこの詩なのではないでしょうか。 発表当時、朝日新聞の天声人語に紹介されたそうで、多くの方が、よくご存じの詩ですが、引用しておきたいと思います。 もはや お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.05.10 00:58:45
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