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週刊 読書案内 谷川俊太郎 選「茨木のり子詩集」(岩波文庫)その2
さて、谷川俊太郎が選んだ「茨木のり子詩集」(岩波文庫)の案内(その2)の登場人物は、詩人の小池昌代です。 ぼくがこの詩集を久しぶりに手に取った理由は、小池昌代さんが解説を書いていらっしゃるということを思い出したからです。 で、やっぱり、こここでは詩集の巻末に収められた「水音たかく ― 解説に代えて」をちょっと紹介するのがいいでしょうね。 小池昌代さんの、茨木のり子の詩の解説はこんなふうにはじめられています。 茨木のり子の詩を読むのに、構えはいらない。そこに差し出された作品を、素手て受け取り、素直に読んでみるに限る。意味不明な部分はない。とても清明な日本語で書かれている。ときには明快すぎ、謎がなさすぎると、不満を覚える人もいるかもしれない。けれど、この詩人の詩が威力を発揮するのは、おそらく、読み終えたのち、しばらくたってから。言葉が途絶えたところから、この詩人の「詩」は、新たにはじまる。遅れて広がる感慨があり、それは読後すぐのこともあれば、何十年か先に届く場合もあるだろう。(P361) で、彼女の茨木のり子体験、出会いはこんなふうに書かれています。 私が最初に出会ったのは、「汲む ― Y・Yに ―」という詩だ。読んで泣いた。本書には収録されていないので、数行を拾って紹介してみたい。詩は次のようにはじまる。 教室で、十代の後半に差し掛かった少年や少女たちに、人が「文学」、たとえば「詩」と出会うということが、どんな体験なのか伝えたいと思い続けて30数年暮らしました。今、この文章を読み返しながら、こんなふうに語ることの難しさが、やはり浮かんできます。 「一種のラブレターのようなものなので、ちょっと照れくさい」 と生前には公表されなかった事情が記され、それらの詩編がYと書かれたクラフトボックスの中に清書されて入っていたことが茨木のり子の死後に発見されたことに触れた後、この詩集に収められている「月の光」という詩を引いて語っているところです。 ある夏の 谷川俊太郎が「成就」という言葉で評した、茨木のり子がたどり着いた文学的な境地を、小池昌代は「自責」という言葉で表そうとしているのではないかというのが、ぼくの感想です。もちろん「文学」に対する「自責」ですね。 詩人の仕事は溶けてしまうのだ 実は、小池さんの解説は丁寧でとても面白いのですが、そこをお伝えすることがうまくできていません。まあ、しかし、一度手に取ってお読みいただくのがよいかということで「案内」を終わります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.05.09 09:52:17
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