|
カテゴリ:週刊マンガ便「コミック」
100days100bookcovers no62 62日目
萩尾望都『ポーの一族』 小学館 リレーをご一緒しているYAMAMOTOさんがしばらくご多忙なので、今回は私がSimakumaさんからバトンを受け継ぎます。 Simakumaさんご紹介の『悪童日記』は、読むつもりで買って積ん読の山にあった本でした。このリレーのおかげで今回ようやく読んだのですが、いや、これはすごい小説でした。最初にこの本に少し触れてから本題に移ろう、と思って書き始めましたが、どんどん書いてしまって長くなりそうなので、『悪童日記』については別の記事にしたいと思います。 さて、少年ふたり、ということで次はすぐに決まりました。選択理由があまりにもベタなことにはそっと目をつぶっていただいて。 『ポーの一族』(萩尾望都著、小学館) 「なにをいまさら少女マンガの古典を」な感がありますが、エンタメ要員として、このマンガを愛する読者のひとりとして、つつしんでご紹介させていただきます。 『ポーの一族』は長編マンガではなく、エドガーという吸血鬼の少年を主人公にした短編エピソードの集積です。初出の『すきとおった銀の髪』が1972年3月、フラワーコミックスから単行本が出たのは1974年6月ですから、もう50年近く前の作品ということになります。 もっとも、初出時から愛読したわけではなくて、初めて読んだのは1980年でした。私はもっぱら山岸凉子のファンでしたので、萩尾望都のマンガを読んだのはそのときが初めてでした。遊びに行った友人の家で見つけ、話もろくにせずに読みふけり、友人を呆れさせたあげく、帰宅してすぐに単行本5冊を買いました。それから現在まで、数年に1回くらいのペースで読み返しています。 この作品は短編の積み重ねでできていますが、萩尾さんには最初から「吸血鬼の物語で永遠に大きくならない子どもを描きたい」という構想がありました。 初出後、柱になる3つの作品『ポーの一族』『メリーベルと銀のばら』『小鳥の巣』を描き、その直後「ポー」の連作を中断して、『小鳥の巣』のアイディアをさらに膨らませ、ドイツのギムナジウムを舞台にした『トーマの心臓』を描き上げます。 余談ですが、『トーマの心臓』は一編にまとまった長編マンガで、『ポー』より『トーマ』の方が傑作だという人もいますが、たんに好みの問題です。どちらも傑作です。ちなみに、『トーマの心臓』を原案にした『1999年の夏休み』という映画を、金子修介が1988年に撮っています。4人の少年役に4人の少女をキャスティングしているのがミソで、今でもカルトな人気があります。主役のひとりは、当時「水原里絵」と名乗っていた深津絵里でした。 話を戻します。萩尾さんは1975年から再び「ポー」に戻り、1976年に最終話の『エディス』を描いて、連載は終わります。 「永遠に大きくならない子ども」は吸血鬼ゆえ、「永遠に衰えることのない生きもの」でもありました(「人間」と言えないところがつらいのですが)。絶対に死なないわけではなくて、身体に大きな衝撃を受けると「消滅」して死体が残らないという設定ですが、吸血鬼たちは「消滅」を避けるために、できるだけ人間と深い関わりをもたないように存在しつづけます。 吸血鬼伝説は全世界にあり、その設定も国によってまちまちだそうです。私は詳しくはないのですが、十字架、ニンニクに弱い、胸に杭を打ち込んだら死ぬ、という言い伝えは、ヨーロッパの吸血鬼伝説が下敷きになっているからでしょう。吸血鬼の発祥は東欧というのも、『吸血鬼ドラキュラ』の主人公がルーマニア人だったということからの誤解のようです。 さて、物語の発端は『メリーベルと銀のばら』です。主人公のエドガーと妹のメリーベルは幼児の頃に森に捨てられ、ポーの一族に拾われて育てられます。14歳のときに一族の秘密を知ってしまったエドガーは、何も知らないメリーベルを一族から引き離すことを条件に、吸血鬼になって一族に加わります。このときから、エドガーの何百年にわたる「衰えない人生」が始まります。数年後、ひょんなことからエドガーとメリーベルは再会し、自分たちの義兄弟であるオズワルドとも知り合うのですが、紆余曲折の末、エドガーは自分を兄と慕うメリーベルを振り払うことができずに、彼女を一族に加え、オズワルドの前から姿を消します。これが18世紀末の話。 『ポーの一族』では、一族のポーツネル男爵夫妻、メリーベルとともに、エドガーは旅から旅への暮らしをしています。少年と少女のころに吸血鬼になってしまった兄妹は永遠にそれ以上成長しないので、長期間同じところに住むことができず、誰かの「子息」としてしか生活できないのです。緊張を強いられる暮らしの中で、エドガーは、メリーベルに恋心を抱くアランという少年と知り合います。ある日、ポーツネル夫妻は一族に加えるのに適した人間を物色しているうち、夫人とメリーベルが見破られて消滅してしまいます。男爵も事故で消滅して、エドガーは突然ひとりぼっちになってしまうのですが、なかでも、心の支えだったメリーベルを失った悲しみはたやすく癒えず、エドガーは、両親がすでになく、心のよりどころを求めていたアランを誘って一族に加え、街から姿を消します。これが19世紀の後半。エドガーはすでに100年を生きています。 『小鳥の巣』は、エドガーとアランが「ロビン」という少年を探して、20世紀、1959年にドイツのギムナジウムに姿を現す話です。エドガーがアランと行動を共にするようになって、80年ほど経っています。ふたりはここで「ロビン」の1年前の死を知り、マチアスという少年を吸血鬼にしてしまったあげく、そのまま姿を消します。マチアスはキリアンという別の少年に見破られ、「消滅」します。 すべてのエピソードは、この3つの柱の間を埋めるようにつくられています。200年にわたる時代の随所に姿を現すエドガーはさまざまな局面で半ば伝説のように語られますが、それを語る人間と同時代にも、エドガーはいます。年代が下るにつれ関係者はヨーロッパ全土に広がり、大きな物語になっていきます。エピソードは年代順に並んでいないので、読み進めるうちに辻褄が合ってくる醍醐味もあります。 でも、世界の広がりとともに、中心にいるエドガーにはどんどん居場所がなくなり、孤独を深めることになっていきます。最終話の『エディス』は執筆当時の時代(1970年代半ば)に設定されていますが、ここでのエドガーは、長年連れ添っているアランとの確執、孤独と疲れで、悪魔のように深い陰翳を背負っています。 エドガーはほんとうは、もう「消滅」したいと思っていたのではないのだろうか。こんなにまでして存在しなくてはならない理由は何なのだろうか。『悪童日記』の双子の少年が重ねる行為が「生きるため」だったことに比すると、エドガーの行為のむなしさがことさらに立ち上がります。最後の支えだったアランも失い、エドガーは虚無の淵に立ちすくむのですが、人々は、あくまでエドガーに「永遠」への憧れを託して伝説を語り続けます。人間は永遠に「永遠」を知ることができませんから。 というわけですが、萩尾さんは、2016年に『ポーの一族』のまだ埋められていない時代のエピソードを突然描き始め、現在継続中です。これがいつまで続くのか、最後まで付き合っていくつもりではあります。 なお、『ポーの一族』は発表からこれまでの間に、何度も体裁や装幀を変えて再版されていますが、私の手元には3タイプの『ポーの一族』があります。このマンガには、版が違うとつい手が出てしまう何かがあるのです。それぞれエピソードの掲載順が違うのですが、面白いのは、頭から順に読むと、掲載順の違いで読後感も微妙に違うことです。このマンガには、そういう楽しみ方もあります。 では、KOBAYASIさん、よろしくお願い致します。(2021・02・28・K・SODEOKA) 追記2024・04・01 追記
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.04.02 22:29:34
コメント(0) | コメントを書く
[週刊マンガ便「コミック」] カテゴリの最新記事
|