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カテゴリ:週刊マンガ便「ちばてつや・ちばあきお」
100days100bookcovers no63 63日目
原作 高森朝雄 ちばてつや『あしたのジョー』発行 日本テレビ 発売 読売新聞社 全11巻 SODEOKAさんが採り上げた萩尾望都の『ボーの一族』は、少女マンガに疎い私でも、漫画家も作品もその名前は知っていたし、主人公が吸血鬼だということも「聞いたことがある」という程度には知っていた。 ただ、実際に読んだことはなかったので、今回の記事で大まかな展開や主要な登場人物は初めて知ることになった。 その後、次につながる手がかりをあれこれ考えてみた。 「ポー」・「エドガー」から誰もが思う「エドガー・アラン・ポー」は、でもまともに読んだ記憶がない。吸血鬼、バンパイア関連でも、映像作品ではなく書物で思い浮かぶものがない。 で、ふと思いついたのが、『ポーの一族』の「永遠に大きくならない子ども」という設定。ある条件下の「消滅」以外では、「少年」のまま永遠の生を得るということ。 作品を実際に読んでいないので、ここから先は私の勝手な解釈になるが、つまり彼ら、というかエドガーは、「大人」への「成熟」を禁じられたまま「永遠」を生きることを条件づけられている。 「成長」すらしないのか、自死は可能なのかどうかはわからないけれど、これはある見方においては「地獄」を生きるというふうにも考えられる。 永遠の「少年性」というところまで考えて、ふと思いついたのが今回選んだ作品だった。 『あしたのジョー2』日本テレビ コミックス アニメ版 原作 高森朝雄 ちばてつや 発行 日本テレビ 発売 読売新聞社 全11巻 『ポーの一族』が「少女マンガの古典」なら『あしたのジョー』は「少年マンガの古典」である。 ただ、上に挙げた書名その他には幾許かの説明が必要だろう。 『あしたのジョー』が、「週刊少年マガジン」誌上で世に出たのが1967年暮、1973年5月13日号まで連載された。 原作者・高森朝雄は梶原一騎の別名で、梶原一騎の本名高森朝樹に由来する。梶原は、同時期に同じ週刊少年マガジンに連載されていた「巨人の星」(連載は1966-1971)の原作者でもあり、あえて別名義を使ったらしい。タイトルは原作者が井上靖の『あした来る人』から採ったとのこと。 最初のTVアニメは、フジテレビ系で1970年4月から1971年9月。79話。ただ原作の途中まで、カーロス・リベラと戦うところまでしか描かれない。 あおい輝彦が主人公・矢吹丈の声を、藤岡重慶が丈のトレーナーでありジムの会長丹下段平の声を演じる。以後、実写版は別のして、アニメでは劇場版や「2」でも、ほかのキャラクターの声は変わってもこの二人だけは変わらなかった。 主題歌は、作詞・寺山修司、歌は尾藤イサオ。 監督、演出は出崎統。このあたりの情報は概ね、Wikiを参照しているが、そのWikiによるとTVアニメには原作にないオリジナルキャラクターやオリジナルストーリーが挿入されている。むろん反対に、原作を省略した部分も多いだろう。 二度目のTVアニメは、「あしたのジョー2」として1980年10月から1981年8月まで。日本テレビ系で放映された。全47話。 前のTVアニメの続編で、力石徹との対戦後から始まり、カーロス・リベラとの出会い以降、原作の最後までが描かれるが、ここでも原作からの省略や、オリジナルキャラクター、オリジナルストーリーが前作以上に含まれている。監督・演出は前作に続いて出崎統。 主題歌は、作詞/作曲が荒木一郎。歌は、25話まではおぼたけし、26話以降が荒木一郎自身。中でも26話以降のオープニングテーマだった「MIDNIGHT BLUES」はいい曲だ。 「あしたのジョー」の主題歌といえば、前作の尾藤イサオの歌がすぐ思い浮かぶわけだが、今聴くと随分重くて暑苦しく、あまり印象はよくない。この荒木一郎の主題歌のほうがずっといい。 長くなった。 つまり手許にある『あしたのジョー2』は、上述の通り、この日本テレビ系放映のTVアニメを書籍化したものなのである。 これを手に入れたときのことは今でも覚えていて、高田馬場のBIG BOXの前で開催されていた古書販売会場でだった。何年前だったかまではわからないが、今は高田馬場に出向くことがすっかりなくなったことから考えると、たぶん東西線の落合(あるいは西武新宿線の新井薬師)の近くに住んでいたときではないだろうか。35年くらい前か。でも11巻を全部自分で持って帰ったんだろうか。重かっただろうに。 漫画の単行本は「ちばてつや漫画文庫」として講談社から出た『あしたのジョー⑳』、つまり最終巻だけが手許にある。 前述のTVアニメの2つのシリーズは観ていた記憶はあるが、単行本を最初から最後まで読んだかと言われると心もとない。でも単行本をまったく読んでいないこともないだろう。「マガジン」連載中に読んでいた可能性は高くない。 丈が鑑別所や少年院で過ごす日々、力石と出会ったり、丹下段平からのはがきによって「あしたのためにその1」等を習得したりするのを読んでいた記憶は薄っすらある。 でも、もし単行本を買って手許に置いていたのならきっと処分しないんじゃないかと思う。そのあたりはよくわからない。もしかしたら別の場所ですべてではなく一定の部分だけを読んだのかもしれない。 今回記事にするに当たって手許にあるものは再度、全部目を通した。 『あしたのジョー』のストーリーは、前半の、力石徹との対決とその死を一つの頂点として、後半は、丈が力石の死から立ち直り、何人かのボクサーとの対戦を経て「成長」していく様を描く。 丈の「野生」を呼び覚ましたカーロス・リベラ、壮絶な体験を持つ氷のように冷徹な東洋チャンピオン金竜飛、丈以上の文字通りの野生児ハリマオ、そして最後に完璧なチャンピオンであるホセ・メンドーサ。 「ドラマ」の脇役にも、丹下段平はむろん(脇役とはもはや言えない)、鑑別所からの長い付き合いになる西寛一(マンモス西)、大富豪の令嬢白木葉子、ライバルたちとしても先に挙げた以外にもウルフ金串やタイガー尾崎、等々。さらにドヤ街の子どもたち、丈に淡い恋愛感情を抱く林紀子(「林屋」の紀ちゃん、後に西寛一と結婚)も。みな欠かせないキャラクターである。 一通り目を通して思ったのは、以前DEGUTIさんが採り上げたクラークのSF作品風にいうなら、『あしたのジョー』は『少年期の終り』までを描いた作品だということだ。 矢吹丈という15歳ほどのまだ子どもっぽい顔立ちの少年が、様々な経験と出会いと壮絶な戦いを経て青年から大人へと「成長」していく一種の「ビルドゥングスロマン」である。 ホセとの壮絶な打ち合いの末試合を終えた丈が 「燃えたよ・・・・まっ白に・・・・燃えつきた・・・・まっ白な灰に・・・・・・・・」(「ちばてつや漫画文庫」『あしたのジョー⑳』)と胸の内でつぶやき、段平に外してもらったグラブを、試合直前に「愛の告白」を受けた白木葉子にもらってほしいと差し出し、ホセの判定勝ちを告げるアナウンスを聴いた後、目を閉じて口元に静かに微笑みを浮かべた、あのラストシーンで丈が死んでしまったのかどうかはさしたる問題ではない。 どちらにしろ、矢吹丈の、推定15歳ほどから21-22歳に至る「少年期」はここで幕を閉じた。その「少年期」の物語に付けられたタイトルが『あしたのジョー』であったということだ。 そして「少年」を生きた丈は、皮肉なことに「あした」などまるで存在しないかのようにその瞬間に自らを燃焼しつくすことを目指した。「大人」には決してできないことだ。いや、「大人」ならそうするべきではないのだ。だからこそ少年・矢吹丈は自身たり得た。そして願い通り「まっ白」になってみせた。 丈は、力石やウルフ金串、金竜飛等々、間接的に死に至らしめたり、再起不能にさせたりとそのハードパンチャーぶりが印象に残るが、今回漫画を読んで、実はそれ以上に、死ぬほど「打たれ強い」ことのほうがさらに印象的だった。意外だった。それによって金竜飛やホセ・メンドーサを呆れさせ狂わせたほど。 しかしそれも今この瞬間に自らを燃焼するための必然だと考えれば腑に落ちる。それによって「パンチドランカー」症状が自らを蝕んでいったとしても。丈にとってはそんなことは問題ではなかった。 しかし丈は何と戦っていたのだろう? 自分自身と、自らの孤独と、自身の境遇と、そして世界と。みな正しい。丈ほどではないにしろ、私たちも日々「戦って」いるのだから。 たぶん問題の立て方が悪いのだ。 丈は、自らを燃焼させるためにどうして「戦い」を選んだのか、というべきか。 『あしたのジョー 2』NO.10(10巻)の中に丈が「相手に対してせいいっぱいになれるってことそれだけが、『どれほど貴重なことなのか』ってことを教えてくれたのが・・・・・・力石 おめえだったんだよ・・・・・・」としみじみ思う場面がある。 丈にとってはおそらく「戦う」ことが、対象や相手に真摯に向かい合う、対峙することを意味した。それが「コミュニケーション」の方法だった。 言い換えれば、丈にとって「戦う」ことは生きることと同義だった。 そのせいか、ボクサーになってからの丈は「ボクサー」でないときは、驚くほど静かで穏やかだった。 「戦う」ことが生きる術になったその所以は、おそらく丈の出生や生い立ちと深く関わるはずだ。 TVアニメの『あしたのジョー 2』のラストシーンでは、丈がコーナーで椅子に腰掛けて目を閉じている場面に、夕陽を背に、丈らしい人影が歩くシーンが短く挟み込まれる(そう指摘されている記事を読んでYouTubeで確認)。 丈は「少年期」を終え、次のステップを踏み出すべく旅に出たのかもしれない。 実際、NO.11(11巻最終巻)で、ホセとの試合前に紀子と丈が、ホセとの試合が終わったら「旅」に出る可能性について言及している場面がある。 紀子が、試合が終わったら、丈が旅に出るんじゃないかと言ったことに丈は「そいつぁいいな」と言いながら「今度旅に出たらもう戻ってこないんじゃないか」と心配する紀子に「帰ってくるよ俺は」と即答する。それは丈の中に「この泪橋」が「どっしりともう腰をおろしちまってる」からだと答える。 「帰ってくるさ ほんとだ紀ちゃん」 (このシークエンスが丈がホセと壮絶な戦いの最中に紀子の回想として登場するところは極めて映画的。このシークエンスに限らず、この『あしたのジョー2』の作画や構成はかなり映像的映画的なタッチになっている) いずれにしろ、終焉の後、丈は旅立った。それでいいのだろう。 では、DEGUTIさん、次をお願いします。2021・03・10・T・KOBAYASI 追記2024・04・01 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.04.03 22:34:24
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