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カテゴリ:映画 ギリシアの監督
クリストス・ニク「林檎とポラロイド」シネ・リーブル神戸 ギリシャの新人監督だそうです。予告編を見ていると、なんだか気難しそうな男が子供用の自転車に乗って、自分でポラロイド写真を撮っているシーンが気を引きました。見たのはクリストス・ニク「林檎とポラロイド」でした。
ラジオからでしょうか、スカボロー・フェアがかかっていて、なんだか散らかった、暗い部屋に座っていると思っていた男(アリス・セルベタリス)が頭をゴンゴン壁だか柱だかにぶつけていました。それが映画の始まりでした。 後から考えると、最初のこのシーンがどこなのか、何をしているのかが謎というか、ポイントだったようです。 で、男がそのアパートから出て来て街に出て花を買ったような記憶があるのですが、勘違いかもしれません。シーンが変わって 「この光の加減は何だ?」 と思っていると夜のバスの車内からの町の風景でした。 男はバスの中で眠り込んだまま、終着駅まで乗ってきて、運転手さんに誰何され、身分証も持たず、名前も分からない、で、記憶喪失騒ぎが始まります。 病院に収容された男は、あれこれ調べられますが、最近よくあるらしい記憶障害で、記憶の回復の可能性を否定され、 「あたらしい人格」のためのプログラム が始まります。 医者に指示された行動を体験し、ポラロイドで写真を撮るというものです。気になっていた子供用の自転車に乗るのは、このプログラムの進行上での出来事でした。意識下にある記憶と身体的な記憶、近過去の記憶と、昔の幼児的な記憶という、それぞれ二項対立的な二通りの視点から描こうとしているプロットでしょうが、記憶をそのように解析するのは、ちょっと通俗かもしれません。 一方で、面白いのは、医者に指示された行動以外で、この男が自分からする行動は林檎を食べることでした。「おふくろの味」という言葉を持ち出すまでもなく、「味覚」や「味わい」は身体記憶の最たるものといっていいと思いますが、そう考えれば、この男は、病院に収容された最初から「記憶」を失ってなどいない、あるいは、記憶に支えられた「アイデンティティー」を失ってなどいなかったのではないかと疑うこともできます。まあ、失っていたにせよ、自ら閉ざしていたにせよ、カギになるのは林檎でした。いつも林檎を買う八百屋のオヤジの「林檎には記憶を助ける作用もある。」という言葉を聴いて、男が林檎を買うのはやめて、オレンジを買うのはなぜかということです。 ここから、男が失った、あるいは、封印した「記憶」とはなにか、ということが見ているシマクマくんの中で沸き起こって来たというわけです。 映画は「あたらしい人格」のためのプログラムに沿って行動する男を追って展開します。酒場での遊興、女との出会い、自動車事故、終末期の病人との出会いと死の看取り。そして葬儀への参列です。 男が最初のシーンの部屋に戻ってきて映画は終わりますが、部屋に残されていたのは腐りかけの林檎が盛られた果物皿でした。 その林檎の中から、何とか食べられる破片を切り取って口にした男の中に、どんな味が広がっていったのでしょう。 最後まで、ほとんどしゃべらない男を演じ、心中に深々と広がる寂寥と孤独を表現してみせてくれたアリス・セルベタリスに拍手!でした。 まあ、勝手な思い込みかもしれませんが(笑)、「あたらしい人格」のためのプログラムなどという、映画的といえば映画的なのですが、考えてみればインチキ臭い話に引き込みながら、実に巧妙に一人の男の記憶を暗示して見せた監督クリストス・ニクの、新人とは思えない手管にも拍手!でした。 挿入される音楽やダンス。八百屋の店先や、それぞれの部屋の光のトーン。医者たちの芝居がかった演技と主人公の無表情。それぞれが実に入念に演出された作品だと思いました。 主人公に子供用の自転車を操らせるアンバランスなシーンなんて、筋運びとしては実に考えられたシーンだと思うのですが、なんともシャレていました。 この監督が、今後、どんな作品を撮るのかチョット楽しみですね。 監督 クリストス・ニク 脚本 クリストス・ニク スタブロス・ラプティス 撮影 バルトシュ・シュフィニャルスキ 編集 ヨルゴス・ザフィリス 音楽 ザ・ボーイ キャスト アリス・セルベタリス ソフィア・ゲオルゴバシリ アナ・カレジドゥ アルジョリス・バキルティス 2020年・90分・G・ギリシャ・ポーランド・スロベニア合作 原題「Mila」 2022・03・23-no38・シネ・リーブル神戸 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.09.06 21:44:39
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