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カテゴリ:読書案内「社会・歴史・哲学・思想」
100days100bookcovers no80(80日目)
宮本常一「辺境を歩いた人々」(河出書房新社) 2022年になりました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。 Simakumaさんからバトンを受けて1月以上過ぎてしまいました。スミマセン!!その間にSimakumaさんはご自身のブログに幸田文の「おとうと」に続き、「みそっかす」・「父・こんなこと」と次々と紹介されました。「視点の高さ」を持つ幸田文の文学から何につなげるといいのか、困っていたのですが、今回も勝手な着地をします。お許しください。 79日目がアップされたのは12月11日。その直前私は青森に1泊2日の旅に出ました。「宿題」の合間の息抜きに、手ごろなひとり旅を楽しむのですが、この度の行先は「青森」でした。ずーっと以前に青春18切符で東北本線をのんびり北上し、夜行で札幌に到着し、静内を尋ねました。青森県はほぼ素通りで、八戸と青森の駅周辺で乗り換え時間を過ごしただけでした。岩手県では花巻の宮沢賢治記念館、岩手県立花巻農業高等学校など、遠野では1泊してカッパ淵などにも足を伸ばしました。北海道では静内でアイヌ、さらにホームで道連れになった方と浦川の「べてるの家」まで見学した贅沢な旅でした。青森の印象は「陸奥(みちのく)」そのものでした。 そもそも「陸奥」とは、古代の蝦夷地で、大化改新後白河以北全域を道奥(みちのおく)国としたと言われます。もちろん中央権力からの視点でしょう。それは近代化とともにさらに定着し、私の概念にもこびりついてしまっていたのです。今回、それを払拭された経緯について、お話させてください。 青森を訪れる前に観光情報をリサーチしました。訪れたいところはたくさんありましたが、時間と交通手段の関係でJR青森駅周辺しか動けませんでした。しかし、旅の後気持ちが高揚し、青森にハマりました。特に「縄文」!。昨年7月27日、北海道・北東北の縄文遺跡群は世界文化遺産に登録されましたが、私はもっぱら南の沖縄に関心が向き、恥ずかしながらあまり感知できていませんでした。 Degutiさんの方が縄文に詳しいのですが、私はこのたびようやく学び始めました。今からおよそ1万5千年前~2千4百年前までの1万年あまりというとてつもなく長い期間、縄文時代の人々の生活と精神文化が続きました。「自然が厳しく貧しい」という私の青森に対するイメージは、全くの誤りでした。むしろブナ林を中心とする広葉樹の森林や豊かな漁場という恵まれた環境の中で、世界的にも稀な定住生活が可能になったことや、また高い精神性がうかがえる死後の埋葬や祭祀、環状列石(ストーン・サークル)など、驚くことばかり!特に縄文土器の洗練された美しさやユニークな土偶のデザイン…。本当に、脳天を打たれた思いと言えばあまりに大袈裟ですが、私自身の思考の枠組みの脆さを思い知らされました。 青森旅行からしばらくたって図書館で借りた『おとうと』を読み終えたのは30日。雪景色が恋しくなって青春切符で福井に向かった電車の中でした。意志や努力だけでは思うようにならない人生や病、人間関係、世間の風当たりなどを見事に描写していました。篠田一士が「心の中に眠っているあの感覚」と評したものが、縄文と重なるかなんて、私の勝手な見方ですが、通じるものを感じたのです。 その後図書館の本棚で目に留まったのが『辺境を歩いた人々』という書名と宮本常一という名前。前から気になっていた民俗学者です。『忘れられた日本人』や『塩の道』などの方が有名なのでしょうが、今の私には「青森」の衝撃があり、「辺境」を探ってみたくなりました。手に取って目次に目を通し、松浦武四郎以外の3人の名前は知らなかったのでいったんは棚に戻したのですが、やはり気になってまた手に取り、序文を読みました。 日本のひらけていない地方をあるいてみると、きまったようにその地方のことをくわしくしらべた書物のあることに気づきます。しかもその書物を書いた人たちは、その土地の人よりも、旅人のほうが多いのです。そのうえ、かれらはかわったところを見るためにやってきて書いたのではなく、「どこだっておなじ日本の国の中ではないか、その国の中のすみのほうにあるからといって、わすれさってしまってはいけない。その土地のことをおたがいにもっと知りあって、よくするように努力しなければいけない。」というように考えて、あるいているのです。… 冒頭の一段落を紹介しましたが、ひらがな表記が多いですね。宮本常一自身が半世紀にわたって日本の国土を歩き続け、膨大な記録を残したのですが、同じように日本の、それもへんぴな地方―僻地―をあるくことに情熱をおぼえ、危険をおかし、困難な旅行をしてそれを後世に伝えた4人を、その記録を元に紹介していました。 八丈島に流され、罪をゆるされた後またもどり、島民とこころをとけあったという近藤富蔵。松浦武四郎は未開の大陸北海道の内陸までくまなくあるきました。当時松前藩に搾取されていたアイヌの人々との交流もありました。明治維新後北海道の道名、国名、郡名をきめる仕事にあたった時は、「えぞはもともと地名ではない」ことをいい、「アイヌがみずからその国をよぶのに加伊(カイ)という。」ところから、「北加伊道」という名前が採用され、のちに「北海道」と漢字を改めます。今も札幌をはじめ、地名の多くはアイヌ語が由来ですが、もしかしたらそれも松浦武四郎の影響が大きいのかもしれません。とまる宿代や食事代は得意の篆刻の報酬でまかなったり、四書、唐詩の話をしてかせいだりした文人であり、人間愛にあふれ、公正無私なヒューマニストであったわけです。自分だけ暴利をむさぼる現代の政治家や事業家と大きな違いです。菅江真澄という人は、おもに秋田、青森などの雪やあられの中での生活や移動、ききんの想像を絶する状況をこまやかに記しています。幸田文の『おとうと』の中で姉が弟を看病するあたりと通じるものがありました。そして、また私の理解が全く事実に届いていなかったと思い知らされたのです。私の未熟な想像や知識を恥ずかしく思い、同時に新しい世界が広がっていくようにも感じました。最後のひとりは笹森儀助です。北は千島、南は琉球、台湾までつぶさにあるき、多くの記録を残した探検家で、第2代青森市長に就任もしました。当初「貧旅行」と自ら命名したのは、できるだけひろくあるき、多くの人にあって地方の実際のことを知ろうとしたからだそうです。 今のように便利な交通手段も情報を得る手段もなかった時代辺境をあるいて記録した4人の人生は、過酷であったかもしれませんが、未知の世界と出会う喜びにあふれていたことでしょう。 Simakumaさんのバトンをいつも変な方につなげてしまうので大変恐縮です。無視してSodeokaさん、軌道修正なさってください。どうぞよろしくお願いいたします。 2022・01・12・N・YAMAMOTO 追記2024・05・04 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.05.08 21:20:31
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