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米本浩二「水俣病闘争史」(河出書房新社)
石牟礼道子の伝記「評伝 石牟礼道子―渚に立つひと」(新潮社)の著者米本浩二の最新の仕事「水俣病闘争史」(河出書房新社)を読みました。 1961年生まれの私は、水俣病闘争に同時代的に参加したわけではない。石牟礼道子から話を聞いて道子の評伝を書くなど、彼女の生涯とその作品について自己流の資料収集や論考を重ねてきたにすぎない。水俣病事件に関してはアマチュアである。事件の中心的要素である水俣病闘争に関しても同様だ。(P9「はじめに」) この「はじめに」を読みながら、自分のことを振り返りました。本書の記述に沿えば、第四章「困難、また困難」に記されている1970年11月28日、大阪厚生年金会館で開催された「チッソ」株主総会に巡礼団を名乗る患者たちが、巡礼姿で乗り込んだあたりですが、巡礼団の出発を見送って熊本に残った渡辺京二の11月25日の日記が引用されています。 巡礼行にのぼる患者一行を一時に熊本駅に見送る。アローで三島由紀夫の死を知る。信じられぬ気持。悲哀の念、つきあげるようにわく。生きていることを信じたかったが、本田氏宅でおばあちゃんより切腹の後、首を落とされたと聞き暗澹となる。(中略・著者) ぼくは、三島由紀夫の市谷での自決の当日の事を、なぜか覚えています。夜のNHKのテレビニュースで知ったのですが、一緒に見ていた父親がため息をついたのに気づいて聞きました。 「知っとる人?」そんな会話をしましたが、父親が三島由紀夫と同い年の丑年であったことに気づいたのは、ずっと後でした。 ぼくは著者の米本浩二よりも、7歳年長ですが、当時、ぼく自身は高校一年生で、「水俣病」も「石牟礼道子」も知りませんでした。 石牟礼道子は「苦海浄土」(講談社文庫)で、浪人をしていたころ、渡辺京二は「北一輝論」(朝日評伝選)で、大学生のころはじめて読みました。石牟礼道子と渡辺京二が「水俣病闘争」のただの同伴者、支援者ではなく、牽引者であったと気づいたのは、ずっと後の事でした。 アマチュアを自称する、この本の著者に関心を持ったのは、この人が石牟礼道子の伝記を書いたあたりからですが、ここのところ、この人の興味の動き方というか、関心の持ち方にはある親しさのようなものを感じて著書の追っかけをしています。 本書は、水俣病事件を記録した膨大な資料の山を、「闘争史」という視点で絞り込み、もちろん闘争の主役は患者ですが、闘争を支え続けた二人、石牟礼道子と渡辺京二を人形浄瑠璃の舞台の人形と黒子のような関係で描いていて、実に面白く読みました。 「みやこには、まことの心があるにちがいない。みやこには、まことの仏がおわすにちがいない。そのように思いさだめて、人倫の道を求め、わが身はまだ成りきれぬ仏の身でございますが、それぞれの背中に、死者の霊を相伴ない、浄衣をまとい、かなわぬ体をひきずって、のぼってまいります。胸には御位牌を抱いて参ります。口には死者たちへの鎮魂のご詠歌を、となえつづけてまいるのでございます」(P114~P115) 上で書いた、1970年11月の株主総会闘争の闘争宣言のビラの内容です。もちろん、書き手は石牟礼道子ですが、この出来事から50年、半世紀の時が経ちました。結局、勝利宣言はないまま、石牟礼道子は鬼籍に入り、渡辺京二は、齢90歳を超えたはずです。 若い世代の人に読んでほしい本ですが、ぼくのような傍観者だった人で、関心はあるというタイプには、より、面白い本かもしれませんね。 石牟礼道子の幼年時代の社会から書き起こされていますが、とりあえず目次を貼っておきます。しかし、まあ、ぜひ、本のほうをお読みください。 目次ついでに、著者のプロフィールです。 米本 浩二(よねもと・こうじ) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.10.25 23:05:57
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