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大江健三郎「芽むしり仔撃ち」(「大江健三郎全小説1」講談社) まったくの偶然なのですが、昨秋から、なんとなく大江健三郎を読む機会があって読んでいたら亡くなってしまうという、まあ、一大事件に重なってしまって、そういうことならという気分で1作ずつ読みなおしです。 夜更けに仲間の少年の二人が脱走したので、夜明けになっても僕らは出発しなかった。 語り手は「僕」です。「僕」は感化院に収容されている少年です。時代は都市部が空襲にさらされていた太平洋戦争の末期です。 僕らは出発以後、性こりもなく脱走の試みをくりかえしては、村々、森、川、畑の隅ずみで 僕らの旅は終わろうとしていた。それが暗渠のなかの移動にすぎないにしても、旅が続けられている間は、果たせないに脱走を少なくとも試みる機会はあったのだった。しかし、限りなく奥へと入りこみ、山々のあいだ谷の向こうの村に定住する場所を見つけてしまったなら、僕らは始めに感化院の柿色の塀の内側へ送りこまれた時よりもなお、厚い壁の奥、深い淵の底へ閉じ込められた気がするだろう。そしてがっくりしてしまうだろう。僕らが旅を続けてきた数かずの村がたちまち強固な一つの輪を閉じてしまった後、そこから脱けでることができるとは思えない。(P218) 読書案内とかいいながらなんですが、今回、この小説の具体的な展開をここで紹介する気はありません。この作品を、さて、何年ぶりでしょう、ともかく、かなり久しぶりに読み直して、 「あっこれは!」 というふうに驚いたことがあったんですね。で、それは何かというと「壁」だったんです。 「本当のわたしが生きて暮らしているのは、高い壁に囲まれたその街の中なの」(「街とその不確かな壁」P9) 村上の最新作にこのセリフがあることに、ボクはさほど驚きません、しかし、20代のころの大江の初めての長編「芽むしり仔撃ち」の「僕」の述懐との一致には驚いたというわけです。 大江の初期作品の登場人物たちについて「壁のなかの人間」の状況を執拗に追及するところに、若い作家は文学的出発点を持った。 で、小説の主人公「僕」は、この作品の壁を取り仕切る村長から最後にこう言われます。 「いいか、お前のような奴は、子供の時分に締めころしたほうがいいんだ。出来ぞこないは小さいときにひねりつぶす。俺たちは百姓だ、悪い芽は始めにむしりとってしまう」(P312) まあ、このセリフがこの小説の題名の由来なのだと思いますが、当然ながら少年の「僕」は、むしられ撃たれる前に、この村長の手をのがれ逃げ出わそうと奮闘するわけなのですが、はたして、脱出は可能なのか、出発はやってくるのか、行き先がどこなのか、まあ、そのあたりは本作を読んでいただくほかありませんね。 「何を今更!」 なのかもしれませんが、ボクにとっては新たな事件であったことを、とりあえず、書き留めておきたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.08.27 00:03:41
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