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100days100bookcovers no92 92日目 小田嶋隆 その2 『災間の唄』小田嶋隆=著 武田砂鉄=撰 出版 (サイゾー CYZO)
この書物、小田嶋隆が2011年6月から2020年8月までのtwitterにおけるツイートを掲載したもの。 [撰]となっているのは、文字通り、10年分の小田嶋隆のツイートから本書に掲載するツイートを選んだのが本人ではなく、武田砂鉄だということだ。ちなみに武田砂鉄も、小田嶋隆と同じようなコラムニストというかフリーライターである。 どうして本人が選ばなかったのかは、武田砂鉄の「序文」でも巻末に掲載された武田による小田嶋へのオンラインインタビューでも触れられていない。他者の目を通したほうが妙味があるという判断もあったのだろうが、体調のすぐれない小田嶋の事情もあったのではないかと思う。 そして巻末の小田嶋の「あとがき」にもあるように、これがおもしろいのだ、ほんとうに。往時から時間が経っていても。 ただ、万人向けではない。癖もあれば個性もある。それはむろんこの書物に限らない。コラムニストで万人向きということは、ふつうないだろうけれど。 各年毎に、その年に起きた「主な出来事」、その中からピックアップされた出来事やそれに対する小田嶋隆のツイートについての武田砂鉄の「解説」、最後に日付を付けた小田嶋隆のツイート、という構成で1セット。年によってページ数にはいくぶんばらつきはあるが、これが10年分繰り返されるのが本編。本編以外には、武田砂鉄の序文、先に触れたオンラインインタビュー、そして小田嶋隆のあとがき。 ちなみに「災間」の含意は説明不要だろうが、念のため。表立っては、2011年の東日本大震災と2020年の新型コロナウイルス感染症の蔓延に挟まれた期間、さらにいえばそこに含まれる、2012年から2020年まで続いた安倍内閣も、言ってみれば十分に「災難」だろう。小田嶋のツイートも安倍内閣に関するものが少なくない。 では、小田嶋のツイートをいくつか紹介してみる。とりあえず、最初の2年と最後の2年の4年から選んでみる。「/」の箇所は書籍ではツイッターのマークが付されていて、たぶん「文脈」の切れ目ぐらいの意味だろうが、実際のところは不明。 2011年6.15 モラリストを自認する人々が政治に期待することは、「自分がどうありたいか」ではなくて、「隣人にどうあってほしいか」だったりする。彼らはそれが、「余計なお世話」だということを、決して理解しない。 7.10 「お花畑」という言葉をやたらと使いたがるのは、長いものに巻かれながら大人ぶっている人たちなのだろうな。/アタマの中にお花畑がある人を嘲笑する人のアタマの中にはたぶん肥溜めがある。/アタマの中に肥溜めを持つ者は、肥料がないと作物は育たないと思っている。が、そもそも花が咲かないと実はできない。/実を結ばない花の存在(つまり蜂を呼び寄せるに足る花の集合)が、実を結ぶ花の営為を支えている。 8.12. レッドテールキャットフィッシュは、口に入り切らない獲物を丸呑みにしようとして窒息して死ぬことがあるということをディスカバリーチャンネルで学んだ。すべての生き物がいつも賢いわけではない。そう思うと生きる意欲がわいてくる。 8.15. 「終戦の日」という言い方には、「よっしゃ、今日はこれぐらいにしといたるわ」のニュアンスがありますね。 9.18 自慢と愚痴は控えて、非難や攻撃は自粛して、ほのめかしやひけらかしは抑制しようと決意したらつぶやくことはひとつもなくなってしまった。なので、全部解禁。ちなみにこれは愚痴気味の非難を含んだひけらかし。 2012年2.11 放射能の恐怖について「被害の実態を科学的に伝えていない情報発信は控えるべきだ」という意見は一見もっともに見える。が、恐怖の核心は「よくわからない」ところにある。被害の実態も、科学的に確定するには数十年かかる。と、彼らの主張は事実上「50年黙ってろ」という話になる。 2.14 新聞や雑誌の人たちは時々「ほら、ハンマー貸してやるからあいつの後頭部叩いて来いよ」みたいな仕事を寄越しますね。人権感覚が麻痺してるんだと思います。 4.24 情報の受け手がメディアリテラシーを身に付けるべきであることは当然ですが、情報の送り手がこの言葉を強調するのは筋違いです。説教強盗ですよ。「あんたの戸締りが甘いから泥棒にはいられるんだ」って、泥棒に言われるのは心外です。5.22 ツイッターの間違った使い方を百個並べることはできるが、それを見たからといって正しい使い方がわかるわけではない。/ツイッターにうんざりするということは、人間にうんざりしていることで、つまりこの世界にうんざりしたということでもある。でも、そう思うとあの人たちの思うツボだからそう思わないことにしようと思う。/「オレはあんたを無視してるぞ」ということを伝えるための、単なる無言とは別次元の、より強力なメッセージを孕んだ言葉が案出されなければならない。 8.19 重要だからこそ放置せねばならない問題がある。たとえば虫さされがそれだ。痒いからといって掻けばよけいに痒くなるし、掻き壊すと大事になる。ムヒを塗って無視。領土問題も同じだよ。 9.11 民主党による政権交代がもたらした最大の悲劇は、マニフェストが反古にされたことでも、政治家が官僚にねじふせられたことでもなく、自民党がネトウヨ野党に変貌したことです。 10.17 ながいあいだ、自分は「やればできる男」だと思っていたのだが、最近になって気づいたのは、オレはどちらかといえば「できればやる男」だったということです。関係者のみなさん。おわびしますすんません。 10.30 実生活でもネット上でも、われわれは思っていることの半分しか言葉にできないわけだが、別の見方をすれば、言えない半分を背負っているからこそ、言葉は重さを持っている。そういう意味で、言いたいことを全部言えてしまう環境の中から発せられる匿名の言葉を、私は、本当の言葉だと思わない。/口から外に出る言葉よりも、口に出せずにのみこんでしまった言葉の方がずっと切実だってことだよ。オレの未遂ツイートがどれほど豊穣であるのかについては、死後、誰かが発掘したうえで検証してくれ。たのむ。 11.6 教育機関に課されている大切な役割のひとつに、子供を子供らしく過ごさせるということがあると思います。子供を改変可能な資源ないしは投資先であると考える無慈悲な人々の手から、子供たちの子供時代を防衛できるのは、実は学校だけだったりしますから。 12.1 若い頃は、自分がおっさんになる頃には、お歳暮みたいな退嬰的な習慣は消滅すると思っていた。で、実際に50歳を超えてみると、同世代の多くが「義理を欠かない→気が利く→空気が読める→行く届いた」人間を目指していたりする。この国はあと二千年はかわらないだろうね。 12.2 感謝と賞賛以外のツイートはしない決意を固めたんだけど、考えてみたら二つとも大嫌いだった。ってことは、ツイートするほどどんどん世間が狭くなるわけだけどこんなことでいいのかオレ。 12.10 安倍さんのテレビCM見た。滑舌の悪さに驚愕。「日本を取り乱す」に聞こえるのは私が取り乱しているからなのか。それとも安倍さんが取り乱し気味だからなのか。それにしてもあれでOKを出した撮影監督は大丈夫な人間なんだろうか。 12.28 若いヤツがシニシズムを振り回しているのを見ると微妙にイライラする。かといって、やたらと前向きな若者もそれはそれで腹が立つ。もしかして私は若い人たち全般が嫌いなのかもしれません。なんということでしょうか。 2019年1.13 平成という時代は、結局のところ「笑いのわからないヤツ」だと思われることを誰もが死ぬほど恐れているどうにも不愉快な時代だった。オレは仏頂面のまま、まるで笑うことなくこの時代の終わりを迎えようと思っている。 4.9 で、「視野の左上が見えないぞ」とつぶやいたところ、「すぐに検査を」「急いで病院へ」というありがたいアドバイスをいくつかいただいて、おかげで、脳梗塞を早期発見することができた。ツイッターと、素晴らしいフォロワーの皆さんと、クソリプに救われた一日だった。 5.1 自身の賛否とは別に「皆が祝っていること」や「多数派が支持する決まり事」に逆らうことは、現状では常識外の逸脱と見なされる。私個人は、窮屈さを感じている。が、この社会で生まれ育った若い人たちは、逸脱者が登場しにくいこのレギュレーションを歓迎しているのかもそれない。/そういう意味では「場の空気をかき乱さないこと」を絶対の徳目とする人々が多数を占めたことが、平成という時代の一番の特徴だったのだと思う。令和の社会がどんなふうに展開することになるかはまだわからない。ただ、個人的には、平成の空気がよろ先鋭化する気がしている。 5.11 結果には必ず原因があるはずだという因果律の考え方と自己責任論が結びつくと、病人には逃げ場がなくなる。「世界を動かしているものはなんだろう?」と問われた時、「偶然だよ」と答えた20歳の時のオレは賢かった。神がいないのであれば、偶然が腕をふるわなければならない。 5.27 なんというのか「オレはすごいんだぞ」というセリフを聞かされて、「なるほどあの人はすごいんんだな」と思う日本人の比率が増えている。判断や評価の基準よりは、マナーの問題なのだろうな。 6.2 様々な側面から総合的に判断して、日本のおばあさんたちは、日本のおじいさんたちに比べて10倍は上品だと思う。あるいはうちの國の社会には、男性が下品にふるまうことにインセンティブを与える何かが介在しているのかもしれない。 6.11 この5年ほどの間に「政治的」という言葉は、もっぱら「反政府的」という意味でのみ使用され、解釈され、警戒され、忌避されるようになった。政権に対して親和的な態度は「政治的」とは見なされず、単に「公共的」な態度として扱われている。なんとも薄気味の悪い時代になったものだ。 7.19 投票日が近づくと「いつになく真面目」なツイートをする人が増えるわけだが、問題は、それ以上に「なんでそんなに必死なんすか?」てな調子で「真剣な発言を嘲笑する」ツイートが多投されることだ。この30年ほど、うちの国を衰退にむかわせたのは、この「真面目さを笑う態度」だったと思っている。 7.23 投票に行ったからといって、すぐに世の中が変わるわけじゃないというのは、たぶんおっしゃる通りだ。とはいえ、投票に行くことで、少なくとも、投票に行った人間の気持ちは変わる。ということはつまり、投票によって気持ちが入れ替わる人間が増えれば、世の中だって、多少は変わるんではなかろうか。 8.3 他者の尊厳を踏みにじった歴史に直面することが、自国民の尊厳を踏みにじると考える人たちの自尊心は、他者の尊厳を踏みにじることによってしか防衛できない何かなんだろうか。/「アートに政治を持ち込むな」とか「音楽に政治を持ち込むな」てなことを言ってる人たちに言いたいのは、持ち込むとか持ち込まない以前に、あらゆる表現は、余儀なく政治的だということです。だって、人間が自由でありたいと願うこと自体が、すでにして政治的なわけだし。/自由が制限されている国家において「自由」は政治的な言葉になるし、「表現」が抑圧されている場所では、「表現」という行為そのものが政治的な意味を獲得せざるを得ない。/ということはつまり「音楽やアートの政治を持ち込むな」てなことを言っている人たちの真意は「オレたちの政治的主張にそぐわないアートや音楽は全力で弾圧するぞ」ということに過ぎないわけだよね。 8.3 政治家は、選挙で選ばれたことを理由に批判を回避できるのではありません。むしろ選挙で選ばれているからこそ、批判に対して責任を負わなければなりません。 8.4 挑戦したことでつまづいた人間に対して、挑むことすらしなかった人間が、つまづいたことの責任を問うている姿を傍観しながら、とてもいやな気持ちになっている。/表現の自由は、失敗した表現にかかわった人間を遠巻きに囲む群衆が嘲笑するその笑い声の中で、少しずつ失われて行くものなのだろうな。/「抗議と脅迫と非難と罵声でボロボロにされる覚悟をあらかじめ固めている人間だけが、自由な表現を貫く資格を持っている」ような社会が、仮に存在しているのだとしたら、その社会は、とてもじゃないけど表現の自由が保障されている社会とは言えないと思う。/「命がけで表現に取り組む者だけが、本当の表現の自由を手に入れられる」みたいなマッチョイズムが、心の底から大嫌いなので、「生半可な気持ちで原稿を書き飛ばしていたり、思いつきで絵を描いている人間にも等しく保障されているのが表現の自由ってやつなんだぜ」と言い張ることにしている。 10.2 「自己責任」なる言葉の機能は「あらゆる他者の責任を免除する」ところにあって、実質的には「責任」という概念自体の無効化である。確かに、死の責任を死者に帰することが可能なら、貧困は貧者の、病気は病者の責任になるのだろうし、飢餓はパンの代わりにケーキを食べない人間の責任てな話になる。 10.4 まわりくどい言い方でないと伝わらないことを理解しない人間は、たぶん端的に言われたことをろくに理解していない。 10.25 自発的な意思や動作を含む活用語尾のすべてに「させていただく」を付加しているあなたはもしかして誰かの召使いなのか? 11.29 「いつもニコニコしていること」を自分自身の心情として掲げるのは、個人の自由でもあるわけだし、好きにすれば良いと思う。ただ、他人にそれを求めることが、あからさまな抑圧だという程度のことは、できれば自覚してほしいと思っている。/「怒り」という感情を、理性の敗北ないしは欠如としか考えない人々は、怒りを表明している人間が何に対して憤っているのかまるで問題にしない。その代わりに彼らが選ぶ態度は、怒っている人間の狭量さや余裕のなさを憐れんだり嘲笑することで、結果として現体制を擁護することだったりする。 12.15 迷ったときに立ち止まれる人はそんなに多くない。引き返すことのできる人間はさらに少ない。多くの日本人は、迷ったまま惰性で前に進んで、でもって、垂直落下する。 2020年2.7 誰かの文章を読んで「何を言いたいのかわからない」という感想を言ってくる人は「文章は何か言いたいことがあるから書くものだ」という思い込みを持っているのだろうね。「この文章の主題はなにか」「作者は何を言いたかったのか」式の試験問題に解答し続けてきた人たちの読み方なのかな。/ 個人的には「主題なんかねえよ」というスタンスで書かれる文章がたくさんあるということを、ぜひ若い人たちに知ってほしいと思っています。 3.12 マトモな社会人として穏当な社会生活を営んで行く上で一番大切なのは、たぶん、余計なことを言わないことだと思うのだが、コラムニストにとって最も不可欠な日常業務は、余計なことを言うことだったりする。なので、原稿を書く人間が真人間として他人と付き合うのは大変むずかしい。 3.14 新型コロナウイルスがこれほど世間を萎縮させているのは、個々人が自己責任において感染を忌避しているからではなくて、「感染することで所属先に迷惑をかけること」を強烈に恐れているからだと思う。われわれは所属組織の巨大な看板を背負って生きてるヤドカリみたいな生き物なのだな。 3.18 「類は友を呼ぶ」を、官邸用語に翻訳すると「適材適所」になる。これ豆知識な。 4.8 生存が危ぶまれるレベルの貧困層であることを自ら証明できた人間だけが現金の給付を受けられる国があるのだとしたら、その国で医療サービスを享受できる患者は、自身が手遅れの重症であることを証明できた人間に限られるのだろうな。 4.14 教養とは、一人で時間をツブすためのネタを自分のアタマの中にどれだけ蓄えているのかを示す指標でもある。その意味で、このたびの強制引きこもり期間は、わたくしども国民一人ひとりが、教養に試されている機会でもある……とかなんとか、こういう根拠のない与太を飛ばすのもまた教養の作用だぬ。 5.15 断酒して25年になるが、かつてアルコール依存症であったことを告知して以来、「ある中」「脳萎縮」と中傷してくる人間が常に突撃してくる。ネットはあらゆるスティグマを永遠に固定する。私刑趣味者たちに攻撃の契機を与えてはならない。なので、現在闘病中なのだが、病名は絶対に明かさない。 5.20 安倍と無知の政治。 5.22 維新の支持者あたりによくあるのは「欲望が存在する」ということと「欲望を全面的に肯定すべきだ」ということをいとも簡単に結びつけてしまう「本音第一主義」論法で、これによると、「欲望は誰にでもある」→「欲望がある以上それを否定すべきではない」→「欲望は全面肯定されるべきだ」になる。/彼らの態度は「偏見」「差別」についても同様で、「人間である以上誰であれ多かれ少なかれ偏見や差別意識を持っている」というあたりまえな観察を、いきなり「誰もが持っている差別や偏見を直視して、それを否定すべきではない」→「差別や偏見に沿った社会を作るべきだ」てな話になる。 5.29 「素直」であることと「無批判」であることの区別がついていない大人がたくさんいることを知ったのが今日の収穫でした。「気づき」という気持ちの悪い言葉を使わなかった私をほめてください。 7.23 たとえば自動車修理工が「新品を買っても100万円しない軽自動車を、200万円かけて修理するのは無駄だよね?」と言うのは、まだ許せるのだとして、仮にも医療にかかわる人間が「ほうっておいても5年で死ぬ人間の命を何百万円かけて延命する意味がありますか?」と言うのを許してはいけないと思うよ。 8.4 イソジン・ゼアズ・ノー・ヘブン。 8.5 一緒に都々逸を嗜んだ友人は、先週の金曜日に死んでしまった。これは笑いごとではない。もちろん、ジョークでもないしネタでもない。オレが受けとめきれてないだけで、正真正銘の現実だよ。 8.28 ひとつ言えるのは、病気をネタに誰かを非難する態度と、病気を理由に批判を封じようとする姿勢は、いずれも、卑劣さにおいて選ぶところがないということかな。/これからしばらくの間、私達は、礼儀正しく別れの言葉を伝えることと、罪を免責するのは別のことだということを、しっかり肝に銘じておかないといけないと思っている。 8.29 ごぞんじなかったらお教えしてさしあげておきますが、コラムニストの主要な業務のひとつはバカなものをバカにすることです。もちろんバカな人たちを怒らせるリスクは覚悟の上です。おわかりいただけましたか?数えてみたら丁度50ツイート。いくぶん多すぎたかもしれない。読んでいるうちに絞れなくなってしまった。 ご存知のとおり、twitterには1ツイートにつき140字という制限があり、それもあってツイートではなかなかまとまった説明がしにくく(「連続ツイート」という方法もあるが)、説明不足になる部分もある。それを小田嶋が逆に利用した部分もあるだろうが、やはりいくぶん舌足らずになっているところもある。 実際、巻末のオンラインインタビューで、「140文字っていうのは、不親切に断言する時にちょうどいい文字数で」と言っていたりする。また、コラムを書く際にツイートを「創作メモみたいな役割」として利用することがある等も。 さらに、小田嶋は巻末の、選者である武田砂鉄とのオンライン対談で、『ピックアップしてもらったからでしょうけど、「なんだ、読み物として成立してるじゃないか」って自分で思いましたけどね。』と言い、「ただし、これ日常を見ているのとは違う景色だと思いますよ。」とも言う。 つまり、個々のツイートには、ツイートされた具体的なタイミングや状況(世間・社会の状況、あるいはtwitterでの状況、さらにいえば小田嶋のタイムラインに現れた状況)や小田嶋自身の感情や思惑があったわけだが、それがこうしてピックアップされた並べられるとわからなくなるということだ。これは他の「コラム」にもある程度あてはまるが、twitterではそうした「生もの」感が一層強いということである。 だから、書籍にまとめられたツイートは、素材は同じでも環境がまったく異なるということを理解しておく必要がある。 でも、やっぱりおもしろい。おもしろいだけでなく、改めて昨今のSNSや引いては「世間」の様々な「傾向」や「問題」について考えるきっかけを与えてくれる。 記事を書いてから、改めて何度か触れた巻末のオンラインインタビュー30ページを読み直してみたら、こちらもおもしろい。いくつか書き加えたくなったが、また長くなるのでやめておく。 twitterのツイートはむろんコラムニストの仕事としてに文筆活動とは性格が異なる。そちらに興味がある向きには、とりあえず先述した中で『ア・ピース・オブ・警句 5年間の「空気の研究」2015-2019』(日経BP)をお薦めしておく。 Webでなら、こちらである程度読める。 https://business.nikkei.com/article/life/20081022/174784/ そしてこちらが小田嶋隆のtwitterアカウント。 https://twitter.com/tako_ashi 小田嶋の死後、ミシマ社から出た「遺稿集」は『コラムの向こう側』(未読)という。これは小田嶋自身の提案で決まったタイトルだと版元の三島社長自ら語っている。 「向こう側」にはおそらくいくつかの意味が含められている。その中には、自らの立ち位置の表明という意味も含まれていたのではないかと思う。 何だか、まとまらないというか、「おもしろい」としか言っていない、ほぼ引用しただけの記事になってしまった。しかし、惜しい人を亡くしてしまったものだと改めて思う。 では、次回、DEGUTIさん、お願いいたします。2023・02・06・T・KOBAYASI 追記2024・04・05 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.04.06 23:11:59
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