|
黒井千次「群棲」(講談社・講談社文芸文庫) 2024年、お正月早々読み始めた小説集に唸っています。黒井千次「群棲」です。
1981年から1984年、文芸誌「群像」誌上に連載された短編連作集です。現在では講談社文芸文庫にはいっていますが、ボクは、元の単行本、1984年4月27日第1刷で読みました。何年か前に、元町の三香書店の店先に100円で置かれていた本です。 庭と呼ぶより家屋と塀の間とでも言った方がふさわしいほどの奥行のない土地の真中にブロックを二つ置き、その上にコンクリートの板を渡しただけの低い棚に並べられた盆栽達が、時折自分をじっと監視しているように思われることがあった。定年を前にした尊彦が釧路の系列会社の役員になって移るとき、東京の家に残ると言い張り続ける静子に対して最後にいった言葉が盆栽のことであったからかもしれない。 唸ったというのは、こういう一節でした。「群棲」と題されて描かれている作品群の舞台は東京の近郊、最寄り駅からは歩いて帰ってこられる住宅地の一角の路地のなか、向かい合わせの四軒の住居です。時は1980年代の始めころですが、その四軒に住む家族のありさまが描かれています。 上に引いたのは「水泥棒」という、定年間近の夫を単身で送り出し、東京で一人暮らす妻静子の生活のありさまを描いた作品の一節ですが、静子の内面がこんなふうに描かれています。 子供もそれぞれ独立して出て行ったのだし、寝たきりの老人を抱えているわけでもない夫婦だけの家庭なのだから、どこから見ても静子は夫についていくのが自然だったろう。家は親会社が社宅に借りあげ、将来東京に戻る時にはいつでもあけるようにするとの話もついていた。にもかかわらず、彼女はどうしても夫と共に北海道に行く気になれなかった。 作品は、一人暮らしをしている静子の家の玄関先の水道が、誰かに使われていて、いつの間にか水が出しっぱなしになっているという「事件」をめぐって描かれているのですが、ボクが唸ったのは、1980年代に50代の女性とその夫といえば、ちょうど、1920年代から30年代に生まれた世代なのですが、それは、まあ、ボクたちの親の世代でもあって、その世代の、その年頃の、だから、結婚生活を30年暮らした、そういう女性に 「なぜか自分が可哀そうでならなかった。」 と言わせているリアルとでもいうべきところでした。 まあ、今読むからそう感じるのかもしれませんが、1980年代の始め、すべてがご和算になる直前の、戦中から戦後という50年の時代を普通に生きてた親たちの世代の、社会に対する実感というか、崩壊に対する予感というか、まあ、何を考えて生きているのかというようなことについて、前を向くことに夢中で気づかなかった世代、まあ、小説のなかの「子供たち」が、いつの間にか、親たちのその年頃を越えて、フト、手に取って読み始めて 「ああ、そうだったんだ!」 と、唸るという感じでしたね。 さて、今の、だから、崩壊感覚が空気のように広がっていると老人は実感する今の、この小説の現在から40年余り経った今の、二十代、三十代の方が,こういう作品をどう読まれるのか、ボクには、もう、見当もつきませんが、一度お試しになられてはいかがでしょうね(笑)。 著者の黒井千次さんは90歳をこえられて、「老いのゆくえ」(中公新書)とか、なんとか、老人生活を綴ったエッセイでご健在のようです。ボクの場合は、そっちを読むのが本筋かもしれませんね(笑)。 目次(数字はページ)
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.01.25 01:08:16
コメント(0) | コメントを書く
[読書案内「古井由吉・後藤明生・他 内向の世代あたり」] カテゴリの最新記事
|