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カテゴリ:読書案内「村上春樹・川上未映子」
村上春樹「騎士団長殺し」(新潮社) まだ、高校生と教室で出逢っていたころの「読書案内」です。還暦を迎えようかという老人が15歳に語る機会があったころの語りですが、捨てるのも残念なので、少々直して載せます(笑)。
さて、まさに、もっともきらめいている同時代の現役作家、村上春樹の新作の案内です。「騎士団長殺し(1部・2部)」(新潮社)という作品です。「きらめいている作家」、「現役の作家」・「同時代の作家」、そんなふうにいうと高校生諸君は、はてな?という感じになるのではないでしょうか。 皆さん、村上春樹とか、読みますか? もう古いことになるのですが、ぼく自身が高校生だったころでも、「現役の作家」・「同時代の作家」なんていう感覚はありませんでした。 ぼくが高校一年生だった、その秋、市谷の自衛隊駐屯地でクーデタを呼びかけて、割腹自殺をして果てるという、とんでもない事件を起こし、新聞紙面をにぎわせた三島由紀夫という作家がいたのですが、事件の当日ニュースを見るまで、ボク自身、彼の名前さえ知りませんでした。もっとも、ぼくは面白くもなんともない3年間の高校生活のせいで、すっかり文学少年化(?)してしまって、2年後の秋の放課後の教室で神戸から転校してきた同級生が「みずから我が涙をぬぐいたまう日」(現在は講談社文芸文庫)という小説を手にして これを知っとおか、天皇陛下のことが書いてあんねん。 といってぼくに手渡そうとしたのことがあったのですが、 いや、これは三島とは正反対の主張をしとお大江健三郎というやつの、天皇制パロディ小説やと思うけど、お前、読んだんか? と返答すると、すっかり鼻白んだ彼は本を投げ出して教室から消えてしまいました。彼は三島由紀夫を崇拝する右翼少年になりたかったようなのですが、少々筋を間違えていたらしいのです。ああ、そういう少年がいた時代です(笑)。まあ、彼をちゃかした説明も当たっているかどうか、今となっては怪しいわけですが、当時の田舎の高校生の政治や文学に対する理解はその程度であったということで、彼がその場に残していった大江健三郎のその小説は今でもぼくの書棚のどこかにあると思います。 もっとも、文学少年などと思い込んでいた自意識過剰の高校生だったぼくが三島や大江に熱中するのはその翌年、京都での予備校通いの下宿での一人暮らしの時からです。その時、「現役作家」・「同時代作家」というべきものに出会うことになりました。 実は三島由紀夫と大江健三郎と村上春樹には共通点があります。何かおわかりでしょうか。答えはノーベル賞です。 三島は1960年代の後半ぐらいのことですがノーベル賞に一番近い日本人作家と騒がれていたし、大江はその後、実際にノーベル文学賞を受賞しました。村上春樹もここ数年、受賞予想の常連ですね。ノーベル賞が意味することはいろいろあるかもしれませんが、何よりも世界文学として、その作品が取り扱われているということではないでしょうか。 世界文学としてというのは、その作品が書かれたオリジナルな言語の文化や社会の枠を超えてということですね。日本語で書かれた小説なんて、「世界」に出てゆけば翻訳でしか読まれないし、日本文化の固有性とか言いたがる人がいますが、世界中の文化が、本来、それぞれ固有だという普遍性において固有なだけですからね。 というわけで、「騎士団長殺し」という今回の作品も数か国語に翻訳され、世界同時発売という、日本人の作家としては、信じられないようなグローバルな扱いを受けています。それが世界文学としての側面の一つということですが、だからといって新作が優れているといえないところが、残念といえば残念ですね。 ただ、ぼくもそうなのですけど、ある作家の作品があるとすると、評判が悪かろうとよかろうと、それを読んでいればうれしいという感受性はあると思うのです。 理由はいろいろあると思いますが、 同時代を生きている作家が世界を描き上げていく感受性は、その作家の作品を読み続けている同時代の読者の感受性を育てる ことになる場合があるのではないでしょうか。 ぼくにとって村上春樹はそういう作家のひとりだということだと思うのです。村上の作品を読んだことがない人のために言うと、村上春樹という作家はある時期から小説の中で使う装置というか、設定というかがずっと共通しています。それは、小説の中に、まあ、壁で仕切られているか、地下の何階かに降りていくか、階段を上がったり下りたりするか、あれこれ方法は工夫していますが、 「あっちの世界とこっちの世界」 があるということだと思うのです。 一般的に、まあ、あたり前のことですが、小説が描いている世界があって、その世界は、読者が作品を読んでいる「今・ここ」の世界とは必ずしも一致しません。小説が描いている今とは、こことは、いつで、どこなんだという場合に、幾通りかの世界があるという前提が納得できなければ、小説なんて、ばかばかしくて読めませんね。 村上の場合のそれは、いわゆるSF的な設定だったり、登場人物の意識の世界の多重性だったりするわけではありません。 「ここ」と「あそこ」という次元の違う世界 が設定されているのです。もっとも、村上は、この多重構造を、小説を読む人間に対して謎として差し出していて、たとえば太宰治の「トカトントン」の音が聞こえてくる世界の設定とは違いますね。太宰の音の発信源は別世界ではない、主人公がいて読み手がいるこっちの世界と地続きだと思うのですね。 「暴力の世界と愛の世界」とか、「死の世界と生の世界」とかに、小説が世界を分割するという設定が、そもそも現実とは違います。現実の世界はそういうふうに複数の世界として割り切ることはできません。現実の世界に足場を置く限り、それは、くっついているわけですから、太宰のような描き方になるというのが一つの方法ですね。ああ、みなさんには「走れメロス」の太宰治ですが、「トカトントン」、新潮文庫で読めますからね。主人公に、どっかから音が聞こえてくる小説です。 村上は重層化されている小説世界という虚構世界を、現実世界と、微妙にズレている構造を明かさないまま書き始めます。そこから、「人間」のドラマが展開するから、自分と同じ現実のこととして読者は読み始めます。はたして、彼の小説世界が、私たち読者の世界と地続きかと言えば、そこが怪しいところなのかもしれません。そもそも、彼の小説が描き出す「あっちの世界」は当然ですが、「こっちの世界」もまた物語的虚構の世界であって、そこから読まなければ、読み損じるのかもしれません。 しかし、まあ、そこが肝なのでしょうが、結局、人間のことが描かれていて、読み終われば悲しくなります。何気なく悲しい世界に生きてることを実感します。なんか「騎士団長殺し」という作品について、まったく要領得ない案内ですが、それが彼の文学だと、ボクは思うのですよね。
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最終更新日
2024.05.31 22:22:40
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